福原愛は亡くなった父親と絶縁状態だった!母親や兄は

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卓球選手の福原愛は3歳9カ月から卓球を始める。右シェーク前陣速攻型。2004年にアテネ五輪に15歳で出場しシングルスでベスト16。2005年から世界最高峰の中国スーパーリーグに参戦。2008年の北京五輪シングルスでベスト16。2012年のロンドン五輪では女子団体銀メダルを獲得しています。

福原愛

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亡くなった父親と絶縁状態だった!金銭問題が原因

福原愛といえば、小さな頃から親からスパルタ教育といってもいいほど、卓球を練習させられていました。当時は卓球少女・愛ちゃんといって、負けては泣いて悔しがる福原愛をテレビでも何度も取り上げれていました。でも、そのスパルタ教育があったから、現在の福原愛があるといっても過言ではないでしょう。

そんな育ての親である福原愛の父・武彦さんは2013年に亡くなっています。当時、父とは確執があり絶縁状態になっていたという。金銭問題で絶縁状態になってしまったそうです。

秋田県湯沢市にある横堀駅。
駅員は1人で、周囲には店らしき店もない。
ここから車で30分ほど山道を進むと、温泉街にたどり着く。
路線バスもなく、コンビニもない・・・。
2013年10月6日、すい臓がんで亡くなった福原愛の父・武彦さんが晩年すごしたのは、こんな場所だった。

武彦さんは2009年頃から、秋の宮温泉郷の中の温泉旅館に住み込みで働いていた。
離れの一室で寝泊まりし、経理事務担当を務め、この2013年6月には社長になったばかりだった。
「毎年、何メートルも雪が積もるような所なんですが、武彦さんはひとり、朝早くから旅館前の雪かきをしていました。性格もすごく気配りできる方でしたよ。がんの影響でここ1年ほどは体調が思わしくなくて、湯沢市にある病院で入退院を繰り返していました」(地元の住民)

そんな武彦さんが亡くなった2013年10月6日の夜には、2004年に離婚した元妻の千代さんと長男の秀行さんが駆けつけた。
しかし、翌日に行われた通夜にはふたりは参列しなかった。
そして、娘である福原愛の姿はなかった。

福原愛

参加出来なかったのには理由があった。
当時、東アジア大会に参加しており中国にいたためだった。
2013年10月16日にはファックスでこんなコメントを出していた。
「2008年の終わり頃を最後に一度も会っていない状態にありました。以後は電話やメールのやり取りも一度もありません。そのような仲でしたが、父がいなければ私は生まれてくることもなかったです。現在の私があり成長した姿があるのも父の影響によるものが少なくありませんでした」
父への感謝を示す言葉はあるが、何か冷め切っている感じだ。
2人に何があったのだろう?

福原は3歳から両親の元で卓球の英才教育を受ける。
4歳でテレビ初登場し、連日怒られて泣きながらも練習するその姿から、泣き虫愛ちゃんの愛称で国民的アイドルになった。
英才教育の結果、福原は5歳で全日本選手権小学校2年以下の部で優勝をし、それ以来、数々の国内大会で優勝し、小学校4年でプロ宣言し、ミキハウスと専属契約をする。
そして、13歳で日本代表入りをする。

しかし、その後、福原の成績は伸び悩んでしまう。
その原因について、卓球関係者が話す。
「武彦さんは卓球経験のない素人なので、目先の結果にとらわれすぎて、負けたらすぐに指導方法を変えてしまっていました。彼の指導には一貫性がありませんでした。福原は父親が絶対だったため、母ですら意見することができなかった」

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武彦さんの場当たりな指導はたくさんあった。
「大阪の有名なコーチに必殺技の王子サーブを教えてもらうために、仙台から大阪に引っ越したかと思うと、中学は名門だからと青森山田中学に進学させたり、早稲田大学に進学したら、今度は中国リーグに参戦させたと思ったら、半年でやめさせたり・・・。こんな状態だったので愛ちゃんは混乱していました。2006年のアジア競技大会で敗退した時は、海外では早い球を打てないと通用しないと、フォームまで改造しようとしていましたからね」(卓球関係者)

さらに、問題だったのが武彦さんの金銭トラブルだ。
「1998年頃、仙台で経営する不動産会社が3億5000万円もの負債を抱え倒産しました。その後、債務者から1億4000万円の返済を求められるなど、家計は火の車でした。そんな状態だったので福原家の収入はすべて愛ちゃんに頼っていました」(スポーツ紙記者)
愛ちゃんはこれまで大手食品メーカーなどのCMなどをしたことがありましたが、ギャラは父の借金返済のために消えたそうです。

「2005年に愛ちゃんの所属先がミキハウスからグランプリに移った時も、1億円ともいわれる新規契約金に武彦さんの心が動いたと言われています。2005年にANAとスポンサー契約し、そのままANAに所属した時も、相当の金額が動いたとみられています。所属先を転々とすることに愛ちゃんは嫌気がしていました」(同上)

高校入学した頃から、福原は周囲に「父親とは仲がよくない」と漏らしていて、その後も波紋を広げる発言が増えていった。
父の方針に反発心を抱きながら、家族のために卓球をしてきたが、結果は出なかった。
2008年には北京五輪でメダルを逃し、2009年の世界選手権でも2回戦で敗退し、この結果が福原に大きな決断をさせる。

「試合後に愛ちゃんは、兄と話し合い、これ以上、父に振り回されたらダメと覚悟を決めたそうです。そして世界選手権の後、兄が父に直接、愛にもう会わないでほしいと決別を告げたんです」(卓球関係者)
それ以来、福原のマネジメントは、個人事務所の千秀企画がしている。
これは母・千代さんと、兄・秀行さんの名前を取ってつけたものだ。
そして、2012年1月には悲願だった全日本選手権で優勝をした。

愛ちゃんが成績不振だった時期は、このような事情が背景にあったそうです。
現在は、結果を出しているのも環境が改善したため、本来の力がだせることが大きいようです。

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