金子哲雄の難病・肺カルチノイドの闘病生活!妻と永遠の別れ

流通ジャーナリストの金子哲雄は1994年に大学卒業後、ジャパンエナジーを経て、コンサルタントとして独立。世界の行列店を取材し、売り上げや利益を高める手法を情報発信。2008年頃からテレビやラジオへ出演し、評論家として活躍。2012年10月に発症率10万人に1人という肺カルチノイドのため亡くなられています。

金子哲雄

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金子哲雄が最後まで末期癌を隠した理由

最後まで病気であることを隠して仕事をやり遂げた金子哲雄。激やせをした時も、ダイエットを成功したと嘘をついてまで周囲に迷惑をかけることを避けていました。

その連絡があったのは、2012年8月末のこと。
金子さん連載の週刊誌を読めばニッポン経済が見える。
それまでは打ち合わせ取材のために、たびたび週刊誌編集部を訪ねてきた金子さんが、「今後は自宅で作業させてほしい」と言う。
体調悪化がその理由だった。

金子さんによれば、咳が続いた2011年6月、医者の勧めで念のためレントゲンを撮ったところ、大きな腫瘍が発見された、
肺カルチノイドという10万に1人しか発祥しない難病で、なかでも金子さんの症例は、数百万人に1人というものだった。

よりによって自分がなぜなのか?
自分が悪いことをしたというのか?
当初は涙が止まらないこともあったという。
「ただ仕事をしている時、その間だけは忘れることができた。仕事をすべて降板し、治療に専念したら自分が自分で無くなってしまう気がした。病気がわかって以降、仕事の喜びが増したんです。毎回、この仕事が最後かもしれないと思って全力で取り組むことができました」

仕事と治療の両立は上手くいっていると思われていたが、しかし2012年3月、肺気胸になり急遽、オペを受ける。
手術を無事に終えたものの、肺に負担がかかるため、以降は飛行機による移動はNGになってしまった。

金子さんは現場主義を貫いていた。
自分の足で情報を拾うことを信念にしていた。
そのロケに行けなくなったことは・・・。
「ロケどろこか、病室から一歩も出れない。ディレクターさんやADの方が、寝ずに準備して下さっているのにと思うと、悔しくて、4日間起きている間はずっと泣いていました」

2012年8月22日、金子さんは自発呼吸ができなくなって危篤に近い状態になる。
「この時は、はっきりと死を覚悟しました。死への支度をしておかないといけないという気持ちに切り替えていきました」
最初に考えたのは、妻・雅子のこと。
貯金や今後の収入、そのほか自分名義のすべてをスムーズに遣(よこ)していかなければならない。

さらに金子さんは、賢い消費をすることで豊な生活が送れることを旨としていた。
だから自分の最後の葬儀さえ、情報として発信したいとこだわったそうだ。
「葬儀会社の人には、本人の葬儀ですかと驚かれましたけどね。僕は細かく仕切ることが大好きなんです。参列いただいた方々に、気分よく帰ってほしいと思ったんです。だって、これが皆さんにできる最後のサービスですから。変かもしれませんが、自分の葬儀のプロデュースは結構楽しい作業でした」
金子さんにとって、生きることは最後まで引退しないで全力を尽くすこと。

病気を公表しなかった理由は、明るく元気なキャラで親しまれる金子さんが、体調が悪いと知らせれることで、仕事がしにくくなるのを恐れたためだった。
最後は自宅で妻に看取られ静かに眠ったそうです。

金子哲雄

肺カルチノイドと500日の闘病生活

余命宣告されてもほとんど周囲に明かすこともなく亡くなっていった金子哲雄。宣告された時は誰よりも辛かったと思います。そして、残されていく妻を思うとさらに辛くなったのでしょう。

金子哲雄さんの妻・稚子さんは、2012年10月1日のことを綴っている。
「午後からはずっと金子の傍らにいました。それまでは数分ごとに、あれを飲みたい、これを持ってきてと、用事を頼まれ、部屋の中を行ったり来たいしていましたが、もう金子から頼まれることはありませんでした。そばにずっといてほしい。この思いに応えるしか、今の私にはできることがありませんでした」
「あぁ、本当にお別れなんだなと思ったら涙が止まりませんでした」

「2012年8月22日に呼吸不全に陥った時には泣き暮れていた金子でしたが、この時はずっと穏やかな声でした」
「稚ちゃん泣いちゃだめよ」
「わかった・・・」
「僕が絶対に守るからね!稚ちゃんを絶対に守るから心配しないで。僕が死んでも絶対に守るから心配しないで大丈夫だから」
金子は私の手をできる限りの力を込めて握りながら、同じ台詞を何度も繰り返しました。

2011年6月のことだった。
以前から顔のむくみと喘息に似た咳に悩まされていた金子さんは、近所のクリニックで検査をした。
「6月6日、私はクリニックに呼ばれた。ドクターは私の顔を見るなり表情を変えずに告げた。末期の肺がんです。木曜日、がん専門病院を予約しましたから、呼吸器内科に紹介状も書いておきました」
全身から力が抜けていくのがわかった。
膝に力が入らない・・・。
末期の肺がんと言う言葉を聞いて、俺、死んじゃうんだと悟ったそうです。

精密検査をした結果、金子さんがかかっていたのは、がんに似た「肺カルチノイド」という病気だった。
だが、この治療法がないとされるタイプのカルチノイドである金子さんは、名のある病院や大学病院から門前払いのような対応をされたという。
最後に頼ったのが、大阪にある血管内治療の専門病院の堀信一院長だった。
「堀先生の第一声を私は忘れない。咳、おつらかったでしょう。私の顔をじっと見て、患者の立場になって声をかけてくださったのだ。その瞬間、私は号泣していた」
これまでは、モノのように見られていたが、初めて人として対応されたと感じたのだ。

手術を受けた結果、腫瘍は1/3の大きさになり、気管圧迫による窒息しの危険は回避された。
体力も少しずつ回復し、金子さんは精力的に仕事と闘病に邁進する。
しかし、病魔は進行していった・・・。
2012年1月、以前からあったカルチノイドの転移による骨盤の痛みで、立って歩くことも苦痛になる。
放射線照射で治療を試みるが、3月には肺気胸を併発した。
これにより飛行機での移動ができなくなる。
現場主義を貫いてきた金子さんは、これが原因で現場に出る機会がどんどん減ってしまった。
仕事をモチベーションに生きている金子さんにとってかなりの痛手となった。

肺気胸の手術の後、堀先生から東京にある診療所、AクリニックのA先生と医療コーディネーターのBさんを紹介される。
「Aクリニックでは往診も行っていた。在宅終末医療にも対応できる体制を整えていたのだ。つまりここは病院なのか自宅なのか、死ぬ場所を選ぶことができるクリニックでもあったのだ。まさに最後の命を託す命託医だと私は思った」

金子さんはいつ仕事ができなくなるかわからないという不安に悩まされながらも、周囲の協力を得て、仕事と闘病を何とか両立をさせようとしていた。
しかし、本人の思いとは裏腹に体は日に日に弱っていく。
2012年7月13日には気をつけていたが、肺炎にかかってしまう。
治療をしても体調がよくならない。
2012年8月には立っていることもままならなくなる。
「この頃には、食事も1日1食、1人前程度しかとられなくなっていた。落ちてしまった体力を回復する術もない。私の周囲にももっと食べなさいとアドバイスしてくれる人がいたが、そういわれるのは本当に辛かった。食べなければいけないのはわかっているのだが、食べると吐き気との戦いも待っていた。経験してから初めてわかることもある。もし皆さんの周りにがん患者がいたら、好きにしたらいいよと温かく声をかけてほしい。頑張れという言葉も辛い。頑張れと言われるとこれ以上、頑張れないよと言いたくもなる」

そして2012年8月22日、状態が急変する。
「8月22日午前7時過ぎ、突如、胸が苦しくなり、いつもの呼吸とは全く違う状態に陥っていた。慌てて妻を呼び、もうだめだと最悪の事態を覚悟する。しかもその日の午後は、25日収録予定のホンマでっか?の打ち合わせと読売新聞の取材が予定されていた。後は妻が対応してくれたので、その日のことはそれ以上記憶がない」
妻との別れが・・・

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金子哲雄の亡くなる準備と妻と永遠の別れ

金子さんははっきりと死を覚悟し、そして準備を急ぎはじめた。遺産整理に始まり、自ら葬儀会社と打ち合わせし、葬儀の段取りから料理に至るまでプロデュース。納骨堂の場所や、霊柩車まで指定した。開業医のための基金まで構想した。そして、人生の総仕上げとして、この本の執筆を開始した。

編集作業に入った金子さんはこう話しをていた。
「40代で亡くなるということが、残された妻にどういう準備をしてどういう気持ちの変化があるのか残しておきたいんです」
人との付き合いを大切にする金子さんだが、この時期、病気のことを知る極一部の知人の来訪さえ断り、この本を完成させることに力を注いだ。

妻の稚子さんは、金子さんの闘病にあたって仕事を辞め、夫の看病につくした。
僕の死に方のあとがきで稚子さんはこんなことを明かしている。
「2012年10月8日のことです。金子が先に逝ってしまってから1週間が経ちました。ちょっとした買い物をしに近所のスーパーにでかけたら、アーモンドピークが並んでいました。ああ、これを食べたがっていたなと並ぶチョコレートを見た瞬間、感じたことのない悲しみが襲ってきて大声をあげて泣いていました。こんな悲しみがずっと続いたら、どうしたらいいのだろうと思うほど衝撃的でした」

金子さんが執筆をはじめ打ち終えたのが2012年9月27日だった。
そして、翌日の晩、ふたりは稚子さん特製の静岡おでんを食べる。
これが最後の食事となった。
「その晩、金子がふと言いました。稚ちゃん・・・俺、もう厳しいと思う。もうお別れだね」と金子さんは雅子さんに告げた。

「1週間くらい前に逝くつもりだったけど、ずいぶん延びたよ。闘病の記録もまとめられたし、もう終わりだと思う・・・」
「待ってよ。私の誕生日、明日の29日だって知ってるでしょ?お願いだから自分の誕生日と夫の命日が一緒になるようなことはしないで」
「わかった。わかったよ、稚ちゃん」
しかし、別れのカウントダウンは始まっていた・・・。

「実際、2012年9月25日からは、毎日のように液体の医療用麻薬を飲むようになっていた。トイレに行ったり、シャワーを浴びたり、血圧の小さな変化に対して、発作のように呼吸不全に陥ってしまうのです。2012年8月22日から体に貼り始めた、痛みなどを抑えるパッチの量も増えていきました」
ふたりはもうわかっていた。
「もう秒読みが始まっているのです。それはお互い、言葉には出さなかったけどわかっていました。かける言葉はもうありません。がんばれという言葉さえ頭には浮かびません。もうこれ以上、何を頑張ればいいのでしょう?頑張れといって金子を追い詰めたくありませんでした」

「もうお別れなのかな?」
「うん・・・」
「私のことは気にしないでね」
「・・・うん、ありがとう」

2012年10月、雑誌の電話取材を終えた金子さんは、稚子さんに、在宅医療でお世話になっていたA先生とBさんに連絡してくれと言った。
「リビングにいる私の耳に、A先生・・・本当にお世話になりました。本当に本当に最高のエンディングでした。ありがとうございました!という声が聞こえていました」
続いて、お世話になったいろいろな人へ連絡を入れお別れをしていた。

別れを済ませた金子さんは、すぐに寝入った。
雅子さんは傍らで寝汗を拭き続けた。
「私は金子が寝ている音、それは不思議と和らいだ音に聞こえましたが、を聞きながら、金子の息づかいの中にまどろんでいました。あの世に向かっているんだな。そのことがはっきりとわかりました。もうお別れは済んでいたのかも知れません。だからでしょうか?取り乱すこともなく、夫を静かに見守っている自分がいました。悲しいとかいう感情は通り越していました」

金子さんの息がだんだんとゆっくりになり、そして止まる。
「ありがとう。お疲れ様。私は金子に声をかけていました。目から涙が流れていたけど、泣いているのとは違います。昼間の涙と意味が違いました。これから始まるんだよね。てっちゃんが用意してくれたことをはじめないといけないんだよね。これはきっと切り替えの涙だったと思います」

そして、2012年10月4.5日に通夜や告別式が行われた。
当初、金子さんが考えていた人数は300人だったけど、予想外の1000人もの弔問客が集まったそうです。
これも金子さんの人望の暑さですね。
最後の1ヶ月は、本を完成させることに全力を注いだそうです。

金子哲雄

難病で治療方法がない肺カルチノイド

まだまだ生きたくて、最後は受け入れ、準備まで完璧にこなし亡くなった流通ジャーナリスト・金子哲雄。あまりにも早すぎる死に惜しいですが、人間的にも金子さんは素晴らしい人だったようです。金子さんが、病名が難病で治療方法がない肺カルチノイドとわかると、どこの病院も門前払いするなか、受け入れてくれた主治医が、金子さんの、勇気と幸せに道は最後の日々を語っています。

2012年12月発表された同年ユーキャン新語・流行語大賞のトップ10に、「終活」が選ばれた。
「終活とは、人生の最後を自分の望むように自分で準備すること」
これは金子さんが考えた言葉だ。

金子さんは肺カルチノイドと診断され、余命宣告もされた。
それから約500日、金子さんは、残されることになる妻のことも考えながら、人生の最後をプロデュースし、遺産整理や納骨堂の手配、葬儀の仕切りまで全部自分でしたのだ。

金子さんを最後まで治療にあたったのが、大阪ゲートタワーIGTクリニックの堀信一医院長だ。
金子さんは堀氏との出会いを書いている。
「私は堀先生の第一声を忘れない。咳、おつらかったでしょう。私の顔をじっと見て、患者の立場になって声をかけてくれたのだ。その瞬間、私は号泣していた」

金子さんの病気は治療不可能とさじを投げてしまうようなものであり、治療率低下を嫌う大学病院や専門病院では、門前払いのような扱いをされたと感じていた。
そんななかで、唯一、手を差し伸べたのが、堀氏だった。
金子さんは、堀氏が、自分のことをモノではなく、人間として扱ってくれたことを著書の中でも綴り感謝をしている。

「感謝をモノとして扱う。これはね、ゲンダイ医療制度の弊害なんですわ。初診の患者を30分親身になって診ようが、5分で片付けようが、診療報酬の基となる保険点数でいえば同じなんですよ。ガン患者でも風邪の患者でも初診料は同じです。病院経営者としては、1人5分、午前中だけで何十人というふうに多くの患者を診たほうがいいに決まってます。そうなると、患者の目を見て、きちんと話を聞いてあげることはできません。さらに涙を流されるようなことがあれば、時間のロスも増えるし、自分の首を絞めないように事務的に言い渡す。システム上そうせざるを得ないんです。だから病院にとって優秀なドクターとは、たくさんさばけるかどうかんなんですよ」(堀氏)

金子さんは生前、週刊誌記者に、堀氏は、局部麻酔中にも、「金子さん、悪さしてる血管はこれやで! 今からここやるよ。後何分くらいでおわるよ」と安心させるように話してくれるのだと言っていた。
相談のメールを送ったりすると、すぐに電話をくれた温かい堀氏に会えたことは闘病の支えになっただろう。

金子さんの手術はうまくいった。
10㎝程度まで膨らんでいた腫瘍が、1/8ほどの大きさまで縮まった。
これによって当座の危機は回避された。
治療に威力を発揮したのは、堀氏の技術と1台1億5000万円もする最新の機材だった。
「ここの病院では、血管造影とCTスキャンを一体化した最新装置を入れています。これがあったからピンポイントで治療が可能だったんです。保険が適用される治療ですが、保険の点数では正直・・・償却できませんよ。多くの病院は安く充分な性能がない機会を使っているんです。だからピンポイントの治療はできないんですよ」(堀氏)

金子さんの病気は難病のため、堀氏の治療方法は他の医師からすると実験的に映る。
「金子さんは、そうした事情がわかっていて、先生の治療方法を広める手伝いをしたいと言ってくれたんです。今年のGWにニューヨークで学会があったんですが、実はそこに一緒に行くことになってた。学会でこんなに元気になった人がいますと金子さんを紹介するつもりでした」(堀氏)
医師が見た金子哲雄という人間とは?

金子哲雄

医師が見た金子哲雄という人間の生き方

医師・堀氏によれば、時間がたつにつれて金子さんは、病気への向き合い方が変わってきたという。
「初めは、70歳まで生きたいんですってさかんに言ってました。私もうまくいけばという期待で臨みましたが、結果、今年に入ってから状況が悪くなっていきました。金子さんは闘病しながら、やがて残された時間をどう使うかということに視点が移ったんです。残された時間、有効に生きるには、どんな手助けをすればいいのか、私達もそんな風に考え方を変えていきました」

「2012年の9月ですかね、本を書いているんですよと連絡をもらいました。この本で少しでも先生の手助けをしたいというんですよ。そんなこと考えるより自分の病気治しいな、あんまり無理せんようにと言いました。あの状態で気遣いをしさらに本を書くなんて人間業ではありません」

金子さんは堀氏に大変感謝をしているようで、本にはこう書かれている。
「リスクを負って血管内治療を行って下さった堀先生。在宅での終末ケアをサポートして下さったAクリニックのC先生、医療コーディネーターのB様、本当によい最後を迎えることができました。ありがとうございます」

医療に関わって25年以上のキャリアを持つBさんだが、金子さんほど痛みに過敏な患者はいなかったという。
「今思い出すと、泣き笑いしてしまうんですが、金子さんは注射が嫌いなんです。だから痛みを痛みで倒すというか、注射をする瞬間に反対側の手を思いっきり噛むんです。採血や点滴など、針を刺すたびに大騒動でしたよ」

金子さんの希望ははっきりしていた。
それは最期まで仕事を続けること。
そして苦しまずに死ねること。
これだけだった。
最期に苦しまないですむのかということだけは何度も聞いていた。
少し延命うるかもしれないからといって、余分な治療をするより、妻との生活のQOLが保たれるようにしてほしいだった。

最後の日、Bさんは金子さんに呼ばれて自宅を訪問した。
「ご自宅にお邪魔していた夕方に、雑誌の電話取材が来たんです。もうつらくてどうしようもない状況です。それなのに、電話口の記者に、ちょっと今、喘息で咳がでてご迷惑をかけるかもしれませんが・・・。まもなく死ぬかもしれない状態だったのに、こんな風に気を使うなんて、言葉もありませんでした。最後の最後まで人に気を使い続け逝ってしまったんですから」
堀氏もBさんも、金子さんは病気で苦しいのに弱みを言わずに、自分のことよりも、常に他人に気を使っていたそうです。

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