小林幸子の旦那・林明男との略奪結婚から事務所社長解任騒動

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歌手の小林幸子は9歳でデビューし、子役として活躍。1979年に「おもいで酒」が大ヒット。2011年11月に再生医療などを手掛けるTESホールディングス社長の林明男氏と結婚。2012年4月に個人事務所「幸子プロモーション」の社長と専務の女性2人を解任して騒動も。

小林幸子

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小林幸子の略奪結婚に激怒した前妻

57歳で幸せを手に入れ結婚をした小林幸子。祝福されてると思われていましたが、結婚した相手の前妻は、小林幸子に騙され夫を略奪されたと当時かなり怒っていたという。

「自分の白無垢のどでかい人形の前に白無垢で現れるなんて、あのベタさが逆にいい会見でしたね(笑)」
2011年9月1日に、小林幸子が、皮膚の再生医療などを手がける社長・林明男氏との結婚を発表した。
会見の様子をみて、冒頭のようにぶった切ったのはコラムニストの今井舞さん。

57歳まで小林が結婚できなかった理由は、彼女の家庭環境にある。
新潟市で精肉店を営む両親の元に生まれ、3人姉妹の末っ子だった。
9歳の頃に、美空ひばりのものまねでチャンピンになり、作曲家・古賀政男氏にスカウトされた。
「歌手デビューに賛成のお父さんと反対のお母さんは大げんかになったそうです。さっちゃんの歌手になりたいの一言でデビューすることになったんです。10歳でさっちゃんは単身上京し、一人暮らしを始めました」(音楽関係者)

彼女は第二の美空ひばりとして期待されデビューしたが、そこで事件が起きた。
「ひばりさんとさっちゃんは同じレコード会社だったんですが、ひばりさんのお母さんが第一のひばりはいらないってことねとレコード会社にクレームをつけたんです。それ以来、さっちゃんは完全に干されました」(同上)
さらに、1964年6月に起きた新潟地震で、精肉店の経営が苦しくなり、5年後に閉店。
家族はまだ15歳の小林を頼って上京した。
家族を養うために小林は年齢を偽って、ナイトクラブで歌を歌い生計を立てた。
彼女はインタビューで、当時のことを振り返り、
「お父さん役をやってきたから、頼って生きる方法を知らないの。だから結婚というものも考えれない」と語っている。
それから数年後に小林は、伴侶を見つけた。
それが結婚をした林氏だ。
林氏はバツ2でそれぞれに長女と長男がいた。 

小林の会見によると、ふたりの出会いは2005年11月に倍賞千恵子との食事会でだったという。
しかし、ふたりを知る芸能関係者は
「小林さんは2005年春頃から、友人たちにボーイフレンドといって林さんのことを紹介しています。出会ったのはもっと昔のことだと思うのですが・・・」
そして、この会見で強く違和感を抱いた人物がいた。
それが林氏の前妻・A子さん。

林明男 小林幸子

元夫と小林が結婚することは会見で知ったというA子さん。
その感想を聞くと、「そうですね・・・呆れました。う~んどうなんですかね」
林氏とA子さんが離婚をしたのは2004年2月。
「離婚する前の12月初めころに、彼から突然離婚を切り出されました、当時、私は彼の会社に勤めていたので、上下関係がはっきりしていて、彼は早く離婚しなければ、慰謝料など条件がどんどん悪くなるという感じで迫ってきました。本当にあの時離婚したかったんでしょうね」(Aさん) 

それからちょうど1年後、2005年2月に週刊誌が小林が林氏をさだまさしやコロッケに紹介したことを報じた。
「離婚して1年も経たないときに、週刊誌の記者が離婚の原因は小林幸子さんですよね?と訪ねてきました。私は知らないと答えたんです。記者の方が帰ってから彼に電話で確認しました。彼は絶対に違うと言っていたので、私はその言葉を信じたんです。だけど、会見をテレビで見たときに事実だと思いました」
林氏はA子さんに、小林との交際を明かすこともせず理由もなく離婚を迫られていたのだ。 

A子さんは林氏との間に出来た高校生の長男とふたり暮らし。
いまさら、争うつもりはないが、どうしても納得ができないことがあるようだ。
「2005年の11月15日に知り合って、2週間後にプロポーズというのは違うと思う。私が彼から小林さんのことを聞いたのは、結婚していた時のことでしたから、あの時、畳み込むように離婚を迫られた理由はこれだと沸かしました。ふたりは自分たちのことしか考えていないと思います」
小林はA子さんとの略奪婚を隠すために出会った日にちを隠蔽したようです。
芸能人はイメージが大事ですから、略奪婚とばれるとイメージダウンにもつながるのでこのようなことをしたのでしょうか?

小林幸子

前妻からの略奪婚に傷心の小林幸子

当初は、出会ってすぐにプロポーズを受けたと嘘をつき、実は相手に妻がいる時から交際を続け、略奪婚に成功した小林幸子。元嫁の口から略奪婚が報じられると、これまでのノロケ状態から黙り・・・。本人の口から事実を認める時はくるのでしょうか?

2011年9月1日に結婚会見では、出会って2週間でプロポーズを受けたなどと、おのろけ連発だった。
しかし、「入籍は2011年11月15日にする予定です。結婚生活については小林が話す予定はありません・・・」(所属事務所)

音楽関係者によれば、
「結婚会見の直後、お相手の林さんに離婚歴があることが週刊誌で報じられました。小林さんは会見で、出会ったのは05年11月と話していました。実際は数年前から林さんと交際しており、当時、林さんは結婚をしていました。林さんの前妻が小林の略奪婚を告発した記事もでました」
略奪婚がばれてしまった小林は、ショックを受け、結婚について一切語らなくなった。 

そんな彼女は、故郷である新潟でイベントに参加していた。
「住民や山古志小学校の児童らと一緒に稲刈りをしたのですが、その後に、小林さん結婚おめでとうございますと祝福されたようです」(音楽関係者)
住民の「なんで、父ちゃんと一緒にこなかったの?」という質問については、「そんなこと言われても恥ずかしいねぇ」と大テレだった。
今後、ふたりがツーショットで公の場に現れることはあるのだろうか?

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小林幸子の事務所社長解任騒動

33年も一緒に仕事をしてきた個人事務所社長と専務を解任した小林幸子。紅白の衣装が約1億円するのを、自分ならもっと安く作ることができると夫の林明男氏が注文をつけたことに始まったという騒動。慰労金(退職金)の額などについても、分割払いを提示するなど、揉めてしまっていたようです。

「小林幸子は2013年、デビュー50周年を迎えます。しかし、今回の騒動で進行中だった50周年記念コンサートの企画は一時凍結となったようです。元社長や専務達が不当解雇を理由に裁判ということにもなれば、NHKも彼女の出演を嫌がる可能性も高いでしょう。2012年の紅白はおろか、歌手活動にも影響しそうです」(レコード会社関係者) 
2012年4月5日、小林幸子が個人事務所社長の女性と専務を解雇したことを報じた。 

今回の騒動の発端は、元社長Aさんと2011年小林と結婚した林明男氏の口論だった。
2012年2月3日、小林の紅白の衣装代が高価すぎることに、林氏がクレームをつけた。
Aさんはその内訳や理由を説明したのだが、林氏はひかなかったという。
口論の再現。
林氏:ステージ衣装を動かすロボットやクレーン会社を知ってますし、僕ならもっと安くできますよ。今度から僕が衣装を作ります
A氏:あなたが幸子の夫なのはわかるけど、音楽活動のことには口出ししないで。素人なのに何ができるの!
林氏:僕ならできますよ。
A氏:それなら、やってみなさいよ!
林氏:ああ、やりますよ。いいですね。

この直後に林氏は小林と新婚旅行に旅立ったのだが、帰国すると小林さんはAさんに冷たく言い放ったという。
「で、社長をいつ辞めるの?」
33年も一緒に苦労をしてきた小林の豹変ぶりにAさんは凍りついた。
「Aさんは、辞めるのは仕方ないが、50周年企画だけはもう進んでいることだからやらせてほしいと申し入れたそうですが、小林さんからは返答がなかったそうです」(芸能関係者)

林明男 

この突然の解雇通告について、A子さんは次のように語っている。
「結婚してから、小林は変わった。ご主人が仕事に口を挟むようになって、彼女がご主人に賛同していき、関係にずれが生じてしまって・・・」
小林の知人は言う。
「それまでも林氏は、Aさんは社長としてふさわしくないと小林に囁き続けていたそうです。新婚旅行では、林氏は僕をとるのか、Aさんをとるのかしっかりしてほしいと迫って、解雇を決意したと聞きました」
Aさんがマネージャーになったのは、33年前の79年。
小林が個人事務所を設立したときには行動を共にし、その後、社長に就任した。 

これまで紅白の名物になってきた派手な衣装はAさんと元専務のアイデアだったようだ。
33年支え続けてきた恩人でもあるAさんを切り捨てた小林。
彼女にその決断を迫った林氏とはどんな人物なのだろうか?
「茨城県出身で、2002年に医療関連会社を設立しました。従業員は15人ほどの会社で、年商は3億円ほどのようです」
そして、林氏には2度の離婚歴がある。
前妻は週刊誌の取材に離婚に至る背景に小林と林氏との交際があったことを明かしている。
小林の略奪婚だったのだ。
小林はこの9歳年下の林氏にベタ惚れだったとか。
「結婚してから、林氏は小林の収入を知り、驚いたそうです。あんなに仕事をしているのに少なすぎないかと。それで事務所の経営方針に疑問を持ったようです。林氏とAさんとは、小さな口論は何度かあったようです。事務所の入っているビルのオーナーが専務だったため、事務所の家賃を払わなきゃいけないのかと言ってたそうです。オーナー本人とも仕事の付き合いがあるのだから、無料でもいいんじゃないのかというのが林氏のビジネス感覚のようです。結局、今回のトラブルで事務所も移転してます」(林氏の知人) 

林氏の主張は、衣装代金などの費用が高すぎる、ぼったくりの主張と、仕事をたくさんしているのに、給料が安すぎる、事務所が取りすぎているのではないかという疑問が多くて、このようになったようですね。
小林幸子も芸能界しか知らなく、Aさんに全てを任せていたので、旦那の話を聞くうちにおかしいと気づいたのかも知れませんね。
当時、退職金などを巡り、両者の弁護士で和解を探ってる段階だった。

小林幸子

事務所女社長追放は夫・林明男氏の計画通り

小林幸子を30年以上も支えてきた所属事務所の女社長。最終的には、弁護士を交えての泥沼の解任になりました。夫・林明男氏は、この事務所社長を前から解任させることを企んでいたという。そして見事に乗っ取りに成功した。

「関根さんは別会社で芸能界の再出発をすることを決意しました。しかし、社長解任当初は、うつに近い状態になり絶望していたと聞いています」(芸能関係者)
2013年、芸能50周年を迎える小林幸子に起きた泥沼騒動。
夫・林明男氏と個人事務所前社長の関根良江さんの言い分が真っ向から対立した。 

小林は「元社長の解任は、提示した慰労金の金額を彼女が納得しなかったためやむなくと行った」としているが、関根さんは書面で反論した。
「この問題は、慰労金の金額の問題じゃありません。円満退社、円滑な引き継ぎのための話し合いであるのに、相手方を疑い、自分の人間性まで疑われたままの状態で辞任することは、いくらお金を積まれても私にはできません」
小林側が慰労金の支払いを2分割にすることを提示。
その理由がマスコミにネガティブな情報を流すことを疑っているためだったことに、関根さんは激怒したようだ。 

8歳年下の夫・林明男氏は千葉県流山市出身。
故郷を訪れると彼の意外な素顔がわかってきた。
「私の知り合いでは、3度も結婚した男なんて他にいませんよ。やっぱりおかしいヤツだなと噂していました。今回の結婚なんて財産目当てとしか言いようがないという人もいますよ」(実家近くの同年代の知人)
母親は、学校の制服などを扱う洋品店を営んでいたが、5年ほど前に閉店。
その後は、当時の顧客に行商を行い、生計を立てていた。
母親を直撃するとこんな事実を語り始めた。 

「解雇騒動の件は私にはわからないし。当人同士が解決するしかないと思います。でも息子が去年結婚する時に、これから、ちょっとゴタゴタすることがあるからという話はしていましたよ。幸子さんとの結婚生活は終始円満で息子も喜んでいたのですが・・・」
どうやら林氏は結婚前からこうなることを考えていたようだ。
「林さんがそう語る背景には、結婚前から関根さんとの確執があったからでしょう。というのは、関根さんは初めから彼のことをよく思ってなかったようです。結婚当初、ふたりの出会いは05年とされていましたが、本当は林氏は元妻と結婚していた01年から不倫関係にありましたから。だから関根さんは彼との交際には反対していました。自分を敵視する林氏は面白いと思うはずがありません。そして結婚を機に、関根さんを牽制(けんせい)し始めたのです」(芸能関係者) 

一瞬にして33年かけて築きあげてきた小林との関係が崩れた。
関根さんは、最大の心残りは小林幸子の50周年公演を手掛けてあげれないことだった。

小林幸子

紅白出場するために画策!民主党議員に紫綬褒章をおねだり

30年以上付き添ってきた個人事務所の社長を解任。夫である林明男氏による計画通りだったようですが、解任したことにより小林幸子の仕事は激減しそうな感じのようです。なかでも紅白の出場は微妙のようで、紅白出場を強めるために、民主党の大臣に紫綬褒章をおねだりしていたそうです。

紫綬褒章とは、「学術芸術上の発明改良創作に関して事績の著しい者」に対し授与される褒章です。これを貰って話題を作り、紅白出場へ強い保険をつけておこうと考えているようです。

「個人事務所のお家騒動以後、2012年のNHK紅白歌合戦の出場が危ぶまれていた小林幸子ですが、早くも出場への工作を始めたようですね。すでに何度も民主党の大物大臣に会っているようですよ」(政界関係者)
会っていたのは当時民主党の鹿野道彦農林水産大臣だという。 

「ふたりの接点は1年半前になります。農水省のお米をもっと食べましょうというキャンペーンの大使に、小林さんが任命されたのがきっかけです」(民主党関係者)
彼女は夫と同伴で鹿野大臣の所属事務所に駆けつけた。
「驚きましたよ。あの小林幸子さんが中年の男性を連れて、鹿野大臣の部屋へ入っていったんです。するとすぐに部屋から先生!先生!これがうちのダンナ!という彼女の声が聞こえてきましたよ」(同上) 

そして、東京港区赤坂にある老舗うなぎ店で、小林と鹿野大臣はお互いの家族を交えての食事会を開いていた。
もちろん、その日も夫の林氏も出席していた。
その席で小林は鹿野大臣にあるお願いをしていたのだ。
「紫綬褒章がほしいとお願いしたそうです。歌手では10年に都はるみ、07年に五木ひろしが受章しています。小林は紫綬褒章の受章で紅白の出場を確実にしようとしたんでしょうね」(芸能関係者) 

そして、この会食後、鹿野大臣の秘書は、秋の紫綬褒章の選考情況について情報収集を始めたようだ。
その直後、小林と女社長とのトラブルが発覚。
「窮地に陥った小林は、夫婦同伴で議員会館を訪問するなどして、鹿野大臣に相談してたようです。鹿野大臣は、和解に向けてNHK幹部との話し合いを約束したそうです」(別の民主党関係者)
鹿野大臣は、NHKの監督官庁である総務省の川端達夫大臣(67)とも付き合いがある。
「鹿野大臣の口からは、紅白のことは川端大臣に話しておくよという話がでたそうです。川端大臣とNHKの松本会長は何度も会食する関係ですからね」(民主党関係者) 

鹿野大臣は2012年9月には総選挙があるかも知れないので、選挙後大臣じゃなければごめんともひと言いったそうです。
鹿野大臣との会食後は夫婦揃って畳に手をついて、頭を下げお願いをしたとのこと。
自分の芸能界生き残りのためなら、政界をも利用する小林幸子。
窮地に立たされているようです。
芸能界では比較的、いいイメージの小林幸子ですが、林氏とは不倫略奪婚をするなどイメージとは・・・。

小林幸子

小林幸子の50周年記念公演も開催微妙に

社長と専務を解任してから仕事のスケジュール管理や準備が回らなくなっていた。新しいマネージャーは新人で何もできないという。紅白の出場も微妙な状態の中で、今度は50周年記念公演も危なかった。解任された社長は50周年だけでもさせてほしいとお願いをして断った経緯がありますが、このままでは芸能活動もピンチに・・・

小林幸子と事務所の元社長である関根良江氏との泥沼対立が発覚して3週間ほどが過ぎた。
小林は2012年4月23日までに、重苦しい現状を打破するべき関係各所に事務所移転と役員変更などを伝える挨拶状を送っている。
関根氏に代わって社長に就任したのは小林本人。
さらに事務所の建て直しに、彼女は秘策を用意していた。

「小林さんとご主人の林さんが関根さんに退任を追った同じころに、夫婦は以前から付き合いのある民主党・鹿野道彦農林水産大臣に紫綬褒章がほしいと相談しています。紫綬褒章がつけば、これまでサポートしてきた関根さんの営業力がなくとも乗り切れるという算段だったんでしょう」(芸能関係者)

「これまで小林さんの公演の交渉人といえば、関根さんと専務でしたから、ふたりがいなくなったことで全ての仕事が暗礁に乗り上げているんですよ。いま小林さんにはマネージャーがついていますが、全く経験のない人です。これまで関根さんが全て身の回りのことをしてきたので、後継者が育ってなかったんですよ」(ある音楽関係者)

その影響もあり、2012年6月6日に発売予定だった新曲は6月リリースもできない状態になっていた。
「紅白では小林さんは、その年にリリースした新曲を歌ってきたんです。あの衣装も、その新曲をNHKのプロデューサーに聴いてもらい、話し合って作ってきた。あの派手な衣装は逆算をしても作製には最低半年はかかるんです。どう考えても間に合わないです」(テレビ局関係者)

さらに毎年の明治座の公演もピンチになっていた。
「公演の大目玉は毎年の紅白の衣装を再び披露すること。紅白にも出ない、衣装はない、恩義のある関根社長もいないとなれば、明治座としても行う理由がない。そんな状況の中で、2013年50周年を迎えるべき年の公演も、スポンサーなどもつきにくいのでは?」(音楽関係者)
小林としてはどうしても紫綬褒章という保証がほしいようです。

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