佐村河内守の耳は聞こえたのか!結婚した妻と現在まで

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作曲家の佐村河内守氏(さむらごうち まもる)は4歳の時から母親からピアノの英才教育を受け始め、10歳のころにはベートーベン、バッハを弾きこなした。1997年に映画「秋桜」の音楽を手掛け、1998年8月にゲームソフト「バイオハザード」、1999年1月にはゲームソフト「鬼武者」の音楽を手掛た。20代で聴覚異常を感じ、30代半ばで聴力を失う。2003年に「交響曲第1番 HIROSHIMA」が完成。

佐村河内守

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同級生が話す!彼は30年以上前からほら吹きでしたよ

聴覚障害を持ちながら作曲家として有名で、現代のベートーベンとまで言われ絶賛されていた佐村河内守。しかし、作曲はゴーストライターの桐朋学園大非常勤講師の新垣隆氏がしていました。さらに、聴覚障害だったことも嘘で、本当は耳が聞こえていたとも暴露されました。この件について、2011年頃に聴力が回復したと言っていましたが、耳鼻科専門医は本当に回復をしたのなら、学会発表レベルと反論をしていました。

広島出身の被爆2世で、両耳が聞こえない作曲家として有名な佐村河内氏。
現代のベートーベンと称され18万枚を売り上げたCD「交響曲第1番HIROSHIMA」などの楽曲にゴーストライターを使っていたことが報じられたのは2014年2月6日のことだった。

そして、ゴーストライターの桐朋学園大非常勤講師の新垣隆氏が謝罪会見を開いた。
「私は佐村河内さんと出会った日から18年にわたり、彼の代わりに曲を書き続けてきました。初めて彼と会ったときから今まで、特に耳が聞こえないということを感じたことは一度もありません。18年間で20曲を提供しました。報酬は、700万前後だと思います」

佐村河内氏が、有名になったのは、これまで彼が明かしてきた壮絶な過去も影響している。

・4歳で母親のピアノの英才教育が始まり、10歳でベートーベンやバッハを弾きこなした。
・中高時代にして学式論、和声法、対位法、楽器法などを学び、高校2年の時に東京へ家出を試みた。
・高校卒業後、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学に進まず、独学で作曲を学んだ。
・1999年には、ゲームソフトの音楽を作曲する直前に両耳の聴覚を完全に失い、以後は絶対音感を頼りに作曲を行う。

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しかし、佐村河内氏の地元の同級生らは、佐村河内氏のことを冷ややかな目で見ていた。
「お母さんからピアノの英才教育を受けていたと聞いてびっくりしましたよ。ピアノをひいてるところなんて1回も見たことないですし、クラシック音楽について話しを聞いたこともありません。そもそも佐村河内は商業科に所属していましたが、ほとんどスポーツ推薦の人ばかりです。学生時代から虚言癖はありましたよ。大勢相手に喧嘩して勝ったとかね。そうやって自分を大きく見せるところがありました」

別の同級生が話す。
「とにかく目立ちたがり屋でパーマをかけたり、学園祭では手品をしたりね。彼は虚勢を張るタイプ。大ボラ吹いたことで、一度地元の不良に目をつけられたこともありました」
佐村河内氏は30年以上前からほら吹きだったと同級生たちが証言してくれた。

さらに、佐村河内氏の妻A子さんの母も、2人が出会った頃から佐村河内氏を怪しんでいたという。
佐村河内氏はA子さんお弟の同級生のふりをして、突然自宅にやってきたという。
「同級生と嘘ついて来たねぇ。本当はここの団地に来るバス停でA子を見つけて、家を特定してきたのではないかって。それからしばらくして、付き合うようになって、私がA子から初めに聞いた時は、エキストラしてると聞いた」(義母)

佐村河内氏とA子さんは1988年に結婚し、広島から横浜市内のワンルームマンションへと引っ越す。
佐村河内氏はロックバンド活動をし、A子さんは子供服店で働いて生計を立てる。
「結婚8年目に娘夫婦を連れてハワイ旅行に行った時、心配じゃけえ、私らの部屋に娘を呼んで、結婚して8年だけど、守くんはなんぼ稼いだ?と聞いたら、20万円ってね。その後、娘が点滴をしながら働いていたことがわかったから、向こうの両親に相談にいったんよ。そしたら、守の母に点滴をしながら働くなんて、今時珍しくないと言われた。悔しくて涙が出たよ。その後、娘に別れた方がいいと電話したんだけど、それから音信不通なんじゃ」(義母)

娘に電話をすると耳が聞こえないはずの佐村河内氏が必ず出ていたそうです。
「聞こえないなんて嘘。A子に代わってというと代わってくれる。ほいで横でずっと聞いてるみたいで、娘が守さんがこう言いよる、ああ言いよると言うんよ。で、言われた通りに私に言うのよ。娘には帰ってきてほしい。共犯者にならんとええんやけど、それが心配で・・・」(義母)

佐村河内氏は俳優やロックバンドに憧れていたのですが、挫折をし、考えた結果が悲劇の作曲家だったようです。

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