原田芳雄の息子・原田喧太や妻に家族みんなで最後まで隠し続けた末期癌
俳優の原田芳雄は1963年に俳優座養成所に入団。1967年の舞台「どれい狩り」、ドラマ「天下の青年」で俳優デビュー。1968年の「復讐の歌が聞える」で映画デビュー。1971年に俳優座を退団。1976年の「祭りの準備」「田園に死す」でブルーリボン助演男優賞。映画は「竜馬暗殺」「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」「美しい夏キリシマ」「父と暮せば」など数多くの話題作に出演。ドラマは「砂の器」「白洲次郎」「不毛地帯」「火の魚」など多数出演。2011年7月に71歳で亡くなられています。息子はミュージシャンの原田喧太。娘は女優の原田麻由。
最後まで家族みんなで隠し続けた末期癌!余命2年宣告
2011年7月、ガンから併発した肺炎が原因で亡くなった原田芳雄。実は数年前から末期ガンだったという。他の共演者などに心配をかけるためか?家族で末期ガンであることを隠し通していたようです。しかも余命宣告までされていたという。
2011年7月19日に亡くなった原田芳雄。
死の8日前には、映画・大鹿村騒動記の舞台挨拶に車いすで登場し周囲を驚かせた。
そんな奇跡のカムバック裏には家族のサポートがあったという。
「実は原田さんにガンが再発した際、家族は余命2年と告げられていました。しかし、みんなそのことを告知せず、隠し続けていたんです。最後まで役者であろうとするお父さんのためでした」(芸能関係者)
1970年に結婚した原田さんの夫婦生活は、三畳一間のアパートから始まった。
原田さんの月給は5千円。
さらに妻の・章代さんは妊娠7ヶ月だった。
当時を知る俳優の中村敦夫が語る。
「1971年、俳優座と衝突した原田は、僕や市原悦子さんらと退団してしまった。テレビにでてるといっても劇団員の給料は安い。赤ちゃんもいるのにやめるんだから奥さんも大変だったと思います」
その後、中村とともに番衆プロを立ち上げ、アウトロー俳優として活躍していった。
「長女が生まれると、渋谷にある日本家屋に引っ越しをした。家族水入らずの時間はありませんでしたね。彼は血縁関係だけが家族じゃないといっていました。自宅にはいつも役者仲間やスタッフを引き連れていました。そんな父に反発していたのが長男・原田喧太で、いつも喧嘩をしていました。そして喧太は家を出てしまった」(役者仲間)
ばらばらになった家族だったが、2008年に原田さんが直腸ガンの手術をしたことで再び家族は絆を深めていったという。
手術は成功したが、だが再びガンが原田を蝕んでいった。
しかし、原田は俳優として生き続けた。
そんな原田の熱意も感じたのだろう。
家族は最後まで原田に告知をすることはなかった。
しかし、息子のミュージシャンでギタリストの原田喧太(けんた)は
「僕たちは言わなかったのですが、父さんはなんとなく気づいていたのかも知れません。死んだ2日前には僕はもうだめだと漏らしていました。父は役者ということに懸けていました。まだまだやりたいことがいっぱいあるんだとも言っていました」と通夜でこのようにいっています。
その後、2012年7月に原田芳雄さんの一周忌法要が東京都港区で営まれ、芸能、映画関係者を中心に150人が参列。息子のミュージシャン原田喧太は、まだ何処で見ているか分からない。変なことはできないと父の存在感の強さを強調したという。
2013年7月には三回忌法要が東京港区で営まれた。親交のあった俳優の渡哲也、内田裕也、石橋蓮司、岸部一徳、佐藤浩市、桃井かおりら約150が参列。息子でミュージシャンの原田喧太は墓地抽選外れたため(当時)父は自宅の仏壇の上にいます。家にお越しの際には触ってあげてくださいとあいさつしたそうです。
2016年2月、原田芳雄さんの誕生日にあたる29日、生前からうるう年の2月29日の誕生日に開催してきたバースデーライブが都内で行われた。スクリーンには原田さんの歌唱映像が流れ、江口洋介、佐藤浩市ら、今回は長男の原田瑛太も初参加。他にも宇崎竜童、吉川晃司らが出演したそうです。