飯島愛の死因と実生活の真相!波瀾万丈の人生もブログ閉鎖へ
元タレントの飯島愛はフジテレビ系「ウチくる!?」、TBS系「中居正広の金曜日のスマたちへ」など、バラエティ番組にレギュラー出演し活躍。2007年3月に芸能界引退後、2008年12月に自宅で亡くなっています。
芸能引退後の実生活の真実
「2008年12月26日、都内で親族だけの密葬が営まれました。それとは別に、親交の深かった中山秀征らを中心に、ファン参加のお別れ会を開く方向で準備を進めているようです。ご両親が了承すれば、早々に実現するのではないでしょうか」(芸能プロ関係者)
「遺体は死後1週間近く経過しており、検視の結果、事件性はないと判断しましたが、自ら命を絶ったのか病死かの判断は出来ず、行政解剖が行われました。しかしそれでも特定は出来なかった。室内からは複数の睡眠剤が発見されており、薬の過剰摂取か、もしくは薬と酒の併用で意識不明になったという見方が強いようです」(社会部記者)
数日前に飯島さんと会ったという男性はこう話す。
「眠れないと、憔悴しきっていました。ここ数ヶ月は薬を飲むと止まらなくなる。友達の部屋でお酒を飲んでいて気づいたら2日も経っていたと話すこともあった。感情の起状も激しく、若い頃はいろんな男と寝たんだと言い出したかと思えば、日本の政治はおかしいと騒ぎだすんです。彼女の悩みについては、金銭トラブルなどあれこれ憶測が流れましたが、私にはよくわからなかったです」
振り返れば飯島さんの人生は波乱万丈だった。
高校中退後、水商売などを経て、1992年にA○嬢としてデビュー。
その頃、出演した深夜番組でTバック女王として注目され、テレビタレントに転身した。
大成功の芸能生活だったが、2007年3月31日、持病の腎盂炎(じんうえん)を理由に芸能界を突然引退したのだった。
両親も飯島さんのことを心配していた。
亡くなる1年前、週刊誌記者が実家を訪れた際、父親の大久保和夫さんは、「親としては病気が心配で電話をするんですけど、昼間は寝ているのかどうか知りませんが、全然出てくれない。コールバックもないし・・・」と不安げに語っていたという。
飯島さんは精神的に不安定になっていたが、当時新たなビジネスを立ち上げる準備に入り、意欲を取り戻していたともいう。
「グッズのショッピングサイトです。遺体発見の10日前には、旧事務所にも協力を仰ぐため、やっとビジネスの形が見えてきたから、具体的な相談がしたいと連絡を入れていたと聞いています。そんな矢先だけだっただけに・・・」(芸能プロ関係者)
2000年の飯島愛による自伝著書は200万部も売れ、テレビドラマや映画化もされた。2006年に芸能界を引退してからも自身ブログの更新は続けていた。ブログで健康上の問題も綴っていた。ブログには亡き後もファンがコメントを書き込み続けていたというが、管理していた両親が高齢になった為、2015年10月に閉鎖しています。
飯島愛の地元での生い立ち
肺炎という警察の発表があり、それでも死因についてはエイズだとかいろんな噂が絶えななかった飯島愛。亡くなってからこれだけ多くの話題があるということは、たくさんの人から支持されていたとも言えるんじゃないでしょうか。その飯島愛の人生を変えた中学生時代のリンチ事件があったそうです。
2009年2月4日、警視庁渋谷署は飯島愛(享年36)の死因が肺炎であったと発表した。
自宅のマンションからは風邪薬や睡眠導入剤など、医師が処方した薬が見つかったが、事件性はなく病死と断定されたのだ。
華やかなマルチタレントが独りきりで消えていった。中学時代の彼女の面影が残る橋がある。
「あいつ、五之橋の下でリンチされたんですよ。あいつが決定的に変わったのはあのことがあってからです・・・」
昼間でも薄暗い川緑に立ちつくしながら、私の脳裏には飯島愛・・いや、本名・大久保松恵の中学時代の友人の言葉が何度もよみがえってきた。
五之橋の近くに、松恵の出身校である江東区第三亀戸中学校がある。
亀戸地区の中では進学率が高いことで知られている。
しかし、松恵の実家から通うには、少々距離が離れている。
なぜ、この中学校に進んだのか?
彼女の小学生の同級生たちはその理由を知っていた。
しつけに厳しく、英才教育に夢中だった両親の姿は、飯島愛の本に何度となく描写されている。
「笑わない父親の隣で、口数の少ない母はいつも目を吊り上げていた。母からすれば子供たちが叱られるということは、遠回しにお前の教育がなってないといわれているようなものだった。あなたのためだから、あなたのためだから、ほんとうにそうだろうか。でもそれが母親の口癖だった。」
両親が松恵の進学先として望んでいたのは、お嬢様学校として名門「東洋英和女学院」の中学部だった。
入試を受けて不合格になったのか、あるいは学力が合格水準を下回っていたので試験を受けなかったのか、それは定かではない。
いずれにせよ松恵は東洋英和女学院に進学しなかった。
落胆した両親は、せめて高校から東洋英和に進んでほしいと願ったのだろう。
自治体相手の困難な手続きをいとわず、当時としては珍しい越境入学を実現させたのだ。(地域によっては認めてないらしい)
松恵の中学受験失敗と越境入学は、同じ小学校の同級生やその親たちの間で話題となった。
ある同級生の親はこう振り返った。
「大久保さんが教育熱心なのは有名でしたから、みなさん松恵ちゃんの受験には関心を持っていましたね。でも大久保さんに受験の結果をきくわけにもいかないじゃないですか。どうなったんだろう?と話題になっていた時、大久保さんの奥さんがPTAの席で何だがとても恥ずかしそうにしていたので落ちたとわかりました。松恵ちゃんが三亀中に越境入学すると聞いた時は、あの親ならとみんなで妙に納得していました。松恵ちゃんの受験の失敗が恥ずかしくて二亀中の親とは関わりたくないんでしょと母親たちは噂をしていました。」
小学校の友達と引き離され、たった独り三亀中に通う松恵・・・。
12歳の少女にとって、その環境の変化はつらく不安を感じたに違いない。
三亀中の同級生の証言によれば、中学に入学した当初の松恵は、大変おとなしい少女という印象で一致している。
飯島の本でも、中学に入った当初の様子が綴られている。
中間テストや期末テストで、松恵は学年で10位以内という好成績を修めていたが、同じクラスにどうしても抜くことの出来ない女子生徒がいたため、母親からなじられていたという。
数学で90点を取っても褒めてもらえない。
4問も間違えてるじゃない!どうしてできなかったの。
努力しても努力しても、母親から認めてもらえない。
12歳の少女は心の中で悲痛な叫びをあげ続けていた。
私は、ただほめてもらいたかった。父に、母に、一言がんばったねといってもらいたかった。
追い詰められていた松恵にさらなる悲劇が・・・。
中一の秋に祖父が逝去したのだ。
両親の厳格なしつけでしょんぼりした松恵を温かく受け止めてくれた祖父母の家は、松恵にとっては安息の地だった。
このショックから松恵は勉強を怠ることになり、成績は急速に落ちて行った。そして問題の事件が起こるのであった。
飯島愛が地元を捨てた事件
祖父が逝去してからは、付き合う友達も変わった。
仲間と一緒にそれまで出入りもしなかった地元のゲームセンターなどで遊び回り、その中で知り合った高校生と交際を始めた。
礼儀正しいと評判だった松恵の態度は、荒々しいものとなっていった。
よくつるんでいた中学の同級生は、このように証言する。
クラスメートの男子の前で、突然スカートをまくりあげた彼女。
「当時は、征服のスカートの丈が長ければ長いほどワルとみなされ、大久保もそのスタイルでした。今思い出しても何であんなことをしたんだろうか、わからないんです。スカートを突然上げる行為をした彼女はちょっと自慢げに微笑んでいました。」
屋上でタバコを吸っているのを教師にばれそうになった時、松恵はタバコをすべて口に詰め込み、ムシャムシャと飲みこんでしまったという。
この証拠隠蔽ですくわれた不良仲間はスゲエ奴と一目置くようになった。
だが、派手な振る舞いは諸刃の剣でもあった。
上級生や他校の不良からすれば、生意気ということになる。
松恵は待ち伏せをされて脅されたり、袋叩きにされたこともあった。
そして決定的な事件が起きた。
中学2年になったある時のこと、松恵はいつも遊んでいる三亀中の女子生徒に呼ばれた。
待ち合わせ場所の五之橋の下に行くと、いつもと仲間の様子が違う松恵をにらみつけてこう啖呵を切った。
「てめぇ、イキがってんじゃねえよ!」
集まった女子生徒ひとりひとりから厳しいビンタを喰らわされた。
中には松恵の親友だと思っていた女子生徒も含まれていた。
松恵は唇は裂け、鼻から、口から血があふれでて、「亀戸で二度とでけぇつらするんじゃねえよ!」と言われ、土下座して謝罪を強いられた。
この事件から松恵は中学では無視をされるようになり、居場所がなくなり、学校にも段々いかなくなる。
友達を失った松恵は、日曜日になると歩行者天国にいくようになる。
ホコ天に通っているうちに松恵は自分と同じような中学生の少女達と仲良くなる。
ホコ天が終わると、今度は新宿へ移動し歌舞伎町のディスコに入り浸るようになる。
当時の歌舞伎町のディスコは500円で中高生でも自由には入れた。
これがきっかけで松恵はさらに堕ちていった。
この当時を知る同級生はこのように証言している。
ごくたまにきまぐれで学校に行っても授業をまともに受けてなかった。
「大久保が久し振りに学校にきた時、音楽の授業で縦笛のテストがあったんですよ。練習をしてきてない大久保にも順番がまわってきて、彼女は一応、起立してみんなの前に出ました。けれども全然笛を吹かないです。その時、教室にシンナーの臭いが立ち込めたんです。あれ、どうしたんだろうと、クラス中が彼女に目をやると、ビニール袋の中に笛を入れて、シンナーを吸っていたんです。音楽の先生に職員室に連れていかれました。」
松恵は定期的に少年センターに通所することとなり、そのたびに古川のカウンセリングを受けた。
そして次第に古川に対し、松恵は心を開いていった。
しかし、古川のカウンセリングによって非行が治ったわけではなかった。
家出や窃盗を繰り返し補導されるというパターンが続いた。
松恵はカウンセリングを受けながら、なんとか中学校を卒業することが出来た。
三亀中の卒業文集を見ると、同級生は嫌でも松恵のことを思い出すという。
それは大久保松恵のページが白紙になっているからだ。
都内の私立高校に進学した松恵は、わずか1ヶ月で退学した。
そして両親や古川の前から姿をくらまし、ディスコで知り合った彼氏と埼玉県で同棲生活を始めた。
松恵は16歳の秋、文京区にあるカラオケスナックで水商売のアルバイトを始めた。
みんなに愛されるようにと、勤め先のママがつけた源氏名が愛だった。
その後、松恵はA○女優・タレントとして活躍することになるが、愛という名前は芸名としても本人の希望で使っていた。
飯島愛(大久保松恵)は10代の頃から人一倍寂しかったのではないでしょうか。
飯島愛が結婚を考えていた元アイドル男性の存在
たくさんのファンに惜しまれ、若くして亡くなった飯島愛ですが、実は結婚する寸前までいった元アイドルの男性がいたことが当時紹介されていました。
両親から勘当され、不仲だと報じられていた飯島愛だったが、実は頻繁に連絡をとり、母の手料理を家族で囲むことも多かったという。
「亡くなってから一切話すつもりはありませんと、口を固く閉ざしてきたご両親ですが、お別れ会で終わりが落ち着いて、話をすることになったようです。いままでひとり歩きしていた飯島愛の誤解をとき、ごく普通の娘について話したいとの意向があったようです」(出版社関係者)
そうして明かされたのは、中学・高校時代に家出や補導などでさんざん迷惑をかけた親に、芸能界入り後、懸命に親孝行し、絆を取り戻していく愛情あふれる親娘の物語。
時を同じく、飯島さんの追悼本が発売された。
この本を発売にあたって、飯島さんの関係者200人に週刊誌が取材をしたという。
その中で初めて明かされたのは彼女の恋愛だった。
「愛ちゃんがかなり真剣に交際していた元アイドルがいたことが明かされています。そのまま結婚するのでは?という雰囲気でした」(芸能関係者)
出演番組の楽屋が隣だったことがきっかけで知り合い、年齢も1歳違いだったことから親密になったが、人気アイドルグループのひとりだった彼の立場を考えると・・・自分から身を引いたという。
「愛ちゃんが以前からファンだったという俳優と楽しそうにレストランで食事をしていたことや、芸能界に入る前には有名音楽プロデューサーと交流があったことなどのエピソードも紹介されています」(芸能関係者)
亡くなってからも語り続けられる飯島愛という大きな存在が残したものが、いかに大きかったのかを示しています。