いしだ壱成と二股交際の女性激白!元妻と谷原章介に託す子供
俳優のいしだ壱成は1992年にドラマ「悲しいほどお天気」でデビュー。その後、ドラマ「ひとつ屋根の下」や「未成年」などに出演し人気俳優に。父親は俳優の石田純一。2003年12月には元タレントの三宅えみと結婚し長男が誕生。しかし、2006年1月に離婚。長男は三宅が引き取り、三宅の再婚相手である俳優の谷原章介の継子となった。その後、2007年3月に映画共演がきっかけで女優の川合千春と交際が発覚するも2009年1月に破局。2014年7月に11歳年下の一般女性と再婚しています。
いしだ壱成に二股交際で振られた女性が涙の激白
石田純一の息子で俳優のいしだ壱成が女優の川合千春と二股交際をしていたと2009年1月、当時付き合っていた幼馴染の女性が涙の告白。
彼は初恋の人でした。それなのに・・・。そう涙を流すAさんは、壱成の幼馴染だった。偶然の再会から交際、妊娠、哀しい別れまで週刊誌に打ち明けた彼女の手紙。
「嘘をつかれたことと、誠意のない対応に絶望しました。相手をどれだけ傷つけたか、気づいてほしい。どん底をしっている人だからこそ、私の辛さはわかるはずです」
Aさんは、涙ながらにそう訴えた。
「出会いは、私が小学校3年生、彼が中学1年生のときでした。母親同士が親しく、彼が暮らした長野県へ頻繁に遊びに行ったんです。月1~2回は行っていたと思います。思春期の一星(壱成の本名)は照れ屋でした。坊主頭の外国人顔で、私の面倒をよくみてくれて、本当のお兄ちゃんのような存在でした。私はしだいに淡い恋心を抱くようになりました。彼は初恋の人でした。」
しかし、Aさんの思いは伝えれぬままだった。壱成は中学を卒業して、単身オーストラリアへ留学する。1年後に帰国し仲間とバンドを組んでプロを目指した。同じころ石田純一の隠し子であることが発覚!マスコミを連日賑わした。
壱成は17歳の時ドラマデビューをし若手人気俳優として着実に歩んでいるように見えた。ところがデビュー2010年にどん底がやってくる。2001年8月、大麻LSD所持で逮捕され、執行猶予つきの有罪判決を受けた。2003年に仕事を復帰するもオファーは激減。そんなさなかの同年12月、元タレントの女性(現・谷原章介夫人)とできちゃった婚し、長男が生まれている。しかし結婚生活は2年2ヶ月でピリオド。
そして壱成は役者、ミュージシャンとして芸能活動を再開。2007年3月にはネット配信映画で共演した川合千春との交際をスタート!
壱成とA子さんが再開したのは、ちょうどその2007年の暮ごろだった。まったくの偶然だったという。東京有明で行われたイベントでばったり出会ったのだ。約20年ぶりの再会だった。
「会場のバックステージでに壱成がいたんです。そのうちチラチラと目が合いはじめ、思い切って声をかけてみました。お互いの母親の名前をだしたら気づいてくれて。え~大きくなったねって・・・」
壱成と川合は一緒にイベントにきていて、2人は手をつないで仲睦まじそうだったのだ。その直後、川合さんは早期がんの手術を受けていたことを自ら告白している。3日間の入院。壱成が川合を支えていた。2人の絆はこの時期、揺るぎがなかったのだ。ところが、2008年10月になって、壱成さんからAさんに突然電話が入った。偶然の再会から1年が過ぎていた。
幼馴染との電話は一瞬で垣根を越えてしまう。最初からお互いの打ち明け話に花が咲いたという。
「最初の電話から、川合さんとはうまくいっていないと話していましたね。もう、ただのルームメイトだ」と。
当時、私にも恋人関係を解消したルームメイトがいたので似たような環境に、よけいに話が盛り上がってしまったんでしょう。川合さんの方から別れたい・友達に戻ってルームメイトとして生活しようと言われたそうです。彼は川合さんを説得し、彼女に尽くしたそうですが彼女の気持ちが変わらなかったそうです。
電話とメールのやりとりが1ヶ月ほど続き、2009年11月11日には、日帰りで箱根の温泉へ出かけた。初デートだった。
「彼は温泉でも堂々としていました。ところが車中で、急にモジモジとし始めて。どうしたの?と聞くと、車中で話すことでもないから。次の新剛でとまったらいってよといったら、見事に次の信号が赤になって。かれはマジ?って大声をあげましたが、腹をくくったようにこういってくれたんです。Aが好きです。私は川合さんのことが気になったので聞いたら、もう別れて、おれはソファで寝てるんだよと、はっきりそう言ってました。」
途中で江ノ島に寄った時、今度はAさんが告白をした。「ずっと好きでした」20年秘めてきた初恋が実った。Aさんはそう思った。
「東京への帰り道、壱成は自分のお母さんに電話をし、私の横でAと結婚を前提につきあうことになったと報告したんです。結婚という言葉に驚きましたが、私も電話を代わって「緑があるんですね」と話しました。その日はそのまま渋谷の愛ホテルに泊り、彼と初めて結ばれた」
そこから頻繁にデートを重ねた。
Aさんは結婚を意識していた。彼女も離婚歴があるため今度こそという思いもあった。
「私は信じきってました。結婚式の話をすると俺は式がいいな。1千万円ぐらいかかるな。おまえは働かなくてもいいよ。家にいてほしい。子供ができたら名前はアカリにしようって。私以上に彼は結婚を考えていてくれているんだと思いました」
ところが。
いしだ壱成の二股交際した女性に謝罪の手紙
「2008年12月7日が彼の誕生日でしたが、仕事があったようで、翌8日に彼は自分でケーキを持って私の部屋に来ました。プレゼントを用意していましたがサプライズ的に渡したかったので、この日は渡しませんでした。ケーキにろうそくを立て2人でお祝いし、彼は明け方帰って行きました。私の部屋に来ても彼は必ず明け方に帰るんです。俺すごく神経質で、自分のものがないと落ち着かないんだ、なんて言ってましたが。その翌日も家に来て、10日の朝に帰りましたが、この日を最後に彼と会うことが出来なくなったんです。」
Aさんが体調の変化にきづいたのは2008年12月12日のことだった。妊娠検査薬で調べると陽性だった。
「好きな人の子供が産める。そう思って、本当に嬉しかったんです。実は私は26歳で中絶し、もう子供が出来ないと思ってましたから。ただ付き合って1ヶ月でしょ、早い妊娠でしたから、彼の反応が気になりましたが、北海道にいた彼に電話すると動揺が感じられ複雑そうでしたが確かに嬉しいと言ってくれたんです」
翌日産婦人科で確認しても兆候ありと診断されました。
壱成に連絡(報告)すると・・・「やっぱりできていたか」と・・・。東京へ戻ったら連絡すると言ったきり、連絡がありませんでした。夜中に突然、壱成から電話下さいとメールがきて電話しても出てくれないんです。その時、女の勘で、彼は川合さんと切れてないのでは?と感じました。
彼女が信じていた結婚の2文字は空しく消えていった。そしてAさんは中絶を決意した。
「一人で病院へ行き、中絶手術を受けました。費用も自分で出しました。涙が止まりませんでした。彼に流産を報告すると、久し振りにメールで返事がありました。大丈夫?と」
メールは来るけど、電話では相変わらず連絡が取れない。中絶な不安定な心理状態でAさんは3度も自ら命を絶とうとした。そんな状況に耐えかねて、とうとう彼女から別れたいとメールすると、壱成から電話が入った。
「彼は今はタイミングじゃないとか、自分のことしか考えていなかった。流産じゃなくて本当は中絶したんだよと話すと、そうだったんだとそれだけでした。」
Aさんは以上のことから壱成の電話を着信拒否に設定。すると今度は壱成から連絡をとりたいと何度もメールが届いた。
「直接かかわりたくないと思いました。2009年1月15日に彼の事務所に連絡をとり、今回のことをすべてお話したんです」
話し合いは2時間に及んだ。Aさんは誕生日に渡しそびれたライターを手渡し泣きながら家に帰った。週刊誌が彼女との交際について事務所に確認した所、壱成からFAXで手紙が届いたという。
いしだ壱成からの手紙
大事な幼馴染でもあるAさん(FAXでは本名)。
そして間違いなく僕の子供の頃の心の妹でもありました。
彼女のことは数ヶ月前に再開した時から、また今でもそう思っています。
お互いにまだそれぞれ彼氏、彼女がいるという状況で関係がスタートし、乗り越えていくものはたくさんありました。
いずれにせよ時間はかかるだろうと思ってました。
僕自身、決して俗にいう遊びのこととして彼女の存在を見たことはありません。
ただお互いに流れていく時間の感覚の違いで感情などの行き違いが生まれ、彼女に辛くきつい思いをさせてしまった事は本当に申し訳ないことをしてしまった。と痛いほど感じています。
結果として、こうして週刊誌を通してお騒がせしてしまう事になった事、お詫びすると共に、Aさんをそこまでさせてしまう程の精神状態に追いやってしまった事、今一度深くお詫びを致します。
Aさんには、色々支えてもらい本当に感謝しています。
Aさん本当にありがとう、本当にごめんなさい。
何がこうさせてしまったのか、きっと僕の男としての心の弱さが原因だったと思います。
彼女が週刊誌に語った言葉の一語一句がどうかは関係なく、僕という人間が一人の女性を傷つけてしまったことは事実です。
2008年の初夏あたりに、川合さんとのそれまでの様な関係が崩れ、下らないことで喧嘩をする事が多くなっていました。
結果としてお互いの気持ちが途切れたのは自分でも理解していました。
時間の問題か・・・これは潮時なのか。
そう思い始めた矢先にAさんと出会い、彼女に導かれる様に魅かれていきました。
川合さんとも気持ちは切れていたとはいえ、世間でいう二股をかけた状態になっていた事は事実です。
そして、いかなる理由があるにせよ、川合さんにこの事実を伝えられずにいたことを心の奥底から反省しています。
今、この状況になってこのことを川合さんに伝える事となってしまいました。
結果としては、助けれない。ごめんね。とひと言いわれました。
これ以上のはっきりとした答えというのはもらえてない状況です。
今後はどの様な状況になっていくのか、どうなるのか全くわからない状態です。自分のしてしまった事をお二人にお詫びをして、そして自分自身、一から出直したいと思います。(終)
この手紙にAさんは
「はっきり言って、心に響く言葉はありませんでした。ごめんねと言われるほど辛くなります。逃げても逃げても自分に帰ってくるだけ、彼にも時間が必要だと思いますが、もういろいろなことから逃げないでほしい」
Aさんと壱成の話会いは始まったばかりだ。
マスコミに発表したのは壱成の無期限芸能活動禁止。
いしだ壱成「僕は生んでほしいといいました」と交際女性の中絶に反論
いしだ壱成と幼なじみとの二股交際・中絶問題がドロ沼化。いしだ壱成は「僕は産んでほしいといいました」と中絶に反論をしています。
同棲中だった女優・川合千春という存在がありながら2009年、幼なじみのAさんとの二股交際が発覚。それを理由に所属事務所からも契約解除をされた。2009年7月から主演を務める舞台「新宿ミッドナイトベイビー」の稽古に臨もうとしていた。本格復帰にあたり、2時間以上にもわたり週刊誌に語った。
「あのころ(2008年10月)、Aさんは僕にとって救いのような存在になっていました。当時、同棲中の川合さんとは、以前のようないい関係ではなかった。彼女は事務所を独立し、ガンとの闘病中でした。彼女は、最後は自分ひとりという思いを強くもっている方でした。ふたりの間には、壁ではないけど、取り払えないカーテンがずっとあるようでした」
すでに家庭内別居状態だったという。
いしだは川合さんとの関係を清算しようと思っていたという。その時、1年前の偶然の再会をしていた5歳年下の幼なじみ、Aさんに連絡をしたという。
「僕にはその時に理解者がほしかった。話を聞いて貰えるだけで嬉しかった。最初は電話でいつか会いたいねと、いうくらいだったのですが・・・」
その後、冷え切った川合との交際とは逆に、Aさんとの交際は順調に進んだ。しかし、その矢先、皮肉なことに川合の様子が変わったのだという。
「川合さんは、やっぱりこの人と向き合おうと思ってくれるようになってくれました。だから僕は中々別れを切り出せなくなってしまった・・・」
そこに今度は、Aさんから突然の妊娠1週間の報告が入った。
「あまりにも早すぎると正直びっくりしました。Aさんに子供が出来たことで、川合さんとの関係を今度こそ精算をして、新しいパートナーと生きるという覚悟を決めました。Aさんに子供ができたということであれば、生んでほしいと告げました。じゃぁ、生んで良いのね?電話の向こうからAさんの安堵の気持ちが伝わってきました」
しかし、妊娠報告を受けてから3日後、赤ちゃんは原因不明の流産で無くなりましたとAさんからメールが入った。
さらに流産ではなく、中絶であったと一方的に告げられる。
「頭の中が真っ白になったり、パニックになりました。なぜそんな大事なことを僕に相談をしてくれなかったのかと。Aさんからは気が楽になった?というメールが来たり・・・。僕は精神状態も最悪になり、日々おびえて暮らしてました」パニック
2009年の1月に所属事務所の関係者が間に入り、Aさんと会うことになる。
「僕はひたすら土下座して謝りました。そして気になっていた中絶の理由を聞くと、あなたの仕事に支障が出てしまうから、1人ですべて事を納めようとしたのよとAさんはいいました」
しかし、数日後、Aさんとのすべてに関する記事と会談をした時の写真が週刊誌に掲載されるという連絡が入った。いしだはまたパニックになってしまったという。
「それまで、いしだは川合さんにAさんのことをまったく話しをしていない。週刊誌が報じるとなってはじめて川合さんに伝えました。するとひと言、残念だったねと。苦笑いの表情を川合さんは浮かべて・・・。僕はその時、すべてが壊れたと思いました」
それからしばらくして、川合さんは、いしだと住んでいたワンルームマンションをあとにした。
こんなどん底状態のいしだを救ったのは、家族とファンからのメッセージだったという。
「父は起ってしまったことよりも、これからどうするかをじっくり話してくれました。母も私は一緒だから、頑張ろうねといってくれました。ファンの方から寄せられたブログのコメントと読ませて頂き、僕はやっぱり演技がしたいという思いに至りました」
俳優への再スタートを誓ったいしだ壱成だった。
いしだ壱成が谷原章介に託した長男と5年間一度も会ってない
いしだ壱成と前妻・三宅恵美との間に生まれた赤ちゃんに5年間も会えてないそうです。今後も数年は会えないという。そこには、元妻と再婚した谷原章介と約束したことがあるため会えないようです。
「父からは長男としてできることがある、頼りにしてるからなと言われました。ちょっと言い方はおかしいですけど、今では僕の家族の中心的な存在がいなかったんですよね。そのような意味で弟が生まれたことで、自分に何ができるだろうと考える責任感がでてきました」(いしだ壱成)
「考えたくはないんですが、弟が20歳になった時、父はもしかしたらいないかもしれない年齢になっている。僕も50過ぎになりますから。父はそんなことが脳裏をよぎるんでしょうね。言葉の端々で、僕を頼っているのがわかる」(同上)
そんな思いを語る壱成だが、自身は自分の子供とは現在関係が絶たれた状態にある。
壱成の子供の母であるタレント三宅恵美さんと結婚したのは2003年12月。壱成は2001年8月に大麻取締法違反の現行犯で逮捕され、執行猶予中のことだった。逮捕前から壱成とは旧知の仲だった三宅が謹慎中の壱成を支える形で交際が始まる。入籍時には、すでに三宅のお腹には赤ちゃんがいた。
「彼女や子供だけは絶対死んでも守る。そういう気持ちです」と入籍直前にインタビューで語っていた壱成。自身が歩んできた母子家庭の辛さを味わわせたくないという思いがあったからだ。しかし、大麻事件後の不安定な生活がスレ違いを生む形になり、離婚をする。離婚は、慰謝料はなく親権は三宅に、壱成は養育費を負担することになり、離婚後も子供との面会はしていたのだが、そんな関係に変化が訪れたのは2007年だった。
三宅が谷原章介と再婚することになる。
元妻の再婚発表を受け、壱成は以来5年間一度も長男に会っていないという。
「会えないというか、僕の気持ちで会わないということなんです。三宅さんが章介さんと再婚されて、彼との間に子供が生まれていく中で、僕の子供がひとりだけ親が違うということを本人に伝えるタイミングというのは難しいですよね。変に告げたり、僕が会いに行くと下手したらトラウマになるでしょうから」(壱成)
そこには、壱成と谷原がかわした約束があったという。
「章介さんと話して、本当の父親が誰なのかコモドに告白するタイミングは章介さんに任せると決めたんです。養育費については受け取らないと言われました。やっぱり僕が養育費を払い続ける限り、父親は僕だという感覚になってしまいますからね。辛いかもしれないけど、子供のことは自分達に任せてくれないかと言われて。僕も小さい頃に経験しているので気持ちも理解できます」
壱成と谷原は1995年にドラマ未成年で共演し親交あったそうです。
2012年現在の壱成は、石川県で暮らしているそうです。
「こっちに済んでから1年くらいですね。まだ人には言えないプロジェクトなんですが、芸人とは全然関係ない仕事をしておりまして、飲食や音楽制作などですね。後は放射能問題で関東の汚染が次第にひどくなっていくなかで、一時的に避難してきたという面もあります」(壱成)
さらに、新恋人もいるようだ。
「壱成くんと彼女が付き合い出したのは1年前くらいですね。彼女は彼と親しいDJ友達のクラブハウスの元従業員。交際が始まり、しばらくは彼女が東北にいたので遠距離恋愛でしたが、2012年の春頃から一緒に暮らしています」(芸能関係者)
家賃4万円、2DKのアパートで住んでいるそうです。
そして壱成は、2014年7月に11歳年下の一般女性と再婚しています。