佐野実はラーメン店で妻と苦労も支那そばやは弟子に!死因は糖尿病悪化

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ラーメンの鬼の異名で知られたラーメン店「支那そばや」店主の佐野実さん。高校卒業後に洋食レストランでコックに。1986年に神奈川県藤沢市に「支那そばや」を開業。2000年にTBSバラエティ番組「ガチンコ」などに出演し、ラーメンの鬼と呼ばれた。しかし、2014年4月に持病だった糖尿病が悪化し、多臓器不全のため63歳で亡くなられれいます。

佐野実

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ラーメンの鬼・佐野実の人生!なぜあそこまで厳しかったのか

1999年4月から2003年7月まで放送されたTBSのバラエティ番組「ガチンコ」で大ブレイクした佐野実さん。ラーメン店「支那そばや」創業者で、ラーメンを食べるルールなどについて厳格な人でも有名でした。人生のすべてをラーメンにかけた人でもありました。そんな佐野実さんのラーメンにかけた人生とは。

「1にラーメン、2にラーメン、3.4が酒で、5が女房。いつもそんなことを言っていました。亡くなる2日前、私達が聞いた最後の言葉はラーメン食べたいです。本当にラーメンのために歩んだ人生でしたね」

2014年4月11日に多臓器不全のために亡くなった佐野実さん。妻・しおりさんは夫の人生を週刊誌に語ってくれたという。

人気ラーメン店「支那そばや」の創業者で強いこだわりと弟子たちへの厳しさから、ラーメンの鬼と呼ばれた。佐野さんを一躍有名にしたのは2000年に出演したガチンコ!だった。ガチンコラーメン道では、参加者を恫喝し、いすを蹴り上げる。作ったスープをまずいと一喝し全部捨てる。ラーメン屋開業を目指して集まった参加者に鬼のような指導をしていた。

佐野実

そんな佐野さんはこんなこともあったという。
「テレビのイメージが悪かったから、外を歩いていたら酔っぱらいに因縁をつけられたことがありました。会社にも1日200件を超える苦情電話がきて、殺人予告までされましたよ」(しおりさん)

それでも佐野さんはスタイルは変えることはしなかった。それは、おいしいラーメンを作りたいという気持ちの方が強かったからだった。

佐野さんは高校時代からラーメン好きで1日3食ラーメンだったそうだ。高校卒業後は洋食レストランに就職し、15年ほど務める。しかし、ラーメン屋を開きたい夢のため、1986年35歳の時に神奈川県藤沢市に支那そばやをオープンした。

妻・しおりさんと佐野さんが結婚したのは2004年だった。開業当初の苦労をよく話していたという。
「手持ちのお金をはたいて開店資金にあてたので、手元に残ったのは5万だったそうです。その5万も、店の釣り銭にまわしていたので、自由に使えるお金はなかったそうです。開店してから3年間はお客さんも少なくて、わずかな売り上げがあってもすぐに新しい食材を買うのに使ってしまう。味に納得がいかないと、人には出せないと捨ててしまっていたので、常に火の車だったそうです」

その努力の結果、開店4年目に徐々に口コミで人気が出て、行列ができるほどの有名店になった。佐野さんはお客にも厳しかった。
「私語厳禁」「香水禁止」と、客に対して厳しいルールを課した。自らも食材や調理に関して厳しかった。食材選びは全国を回り、生産者には直接会い、野菜ならどんな土を使って、どんな水で作られているのかまでこだわっていた。

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持病の糖尿病の治療のために通院を繰り返すように

おいしいラーメン作りに力を注いできた佐野さんに、体調の変化が現れたのは2011年頃から。糖尿病の治療のために通院を繰り返すようになっていたのだ。2014年2月、佐野さんの体はついに悲鳴をあげる。高熱を出して入院してしまったのだ。集中治療室に入って、酸素マスクも外せない危険な状態が続いた。妻・しおりさんと娘は病院近くのマンスリーマンションを借りて看病をした。

「全身が痛い様子だったので、きつい、きついと口にしていたのでさすってあげると楽になるみたいです。ずっとマッサージをしていました。代わってあげたいというと、きついのはおれだけでいいと言われたんです」(佐野さんの娘)

佐野さんはそんな中で、しおりさんにとって忘れられないサプライズがあった。
「2月28日が私達の結婚記念日なんですが、その日、病室に行くと、布団をめくるようにいわれて、めくってみると指輪が用意されていました。つらいはずなのに・・・、一生懸命な笑顔で結婚記念日おめでとうと言って渡してくれました。本当に嬉しかったです」

佐野しおり

2人の懸命な看病のためにも退院の日を待ち望んでいた佐野さん。病室でも頭の中は常にラーメンのことを考えていたそうだ。佐野さんの右腕として長年、支那そばやを支えてきた宮本専務が話す。
「特に麺のことを気にしていました。自家製麺は、気温や湿度によって、毎日水を加える量が違うんです。麺はうまく作れているか?店は大丈夫か?と見舞いにいくたびに聞かれました。次のレシピなども考えていましたね。痩せ細って弱々しくなってしまっていても、ラーメンの話をしてる時だけは、目の置くに力がこもるんです」

佐野さんは病室でもラーメンが食べたいそうだったので、2014年4月4日にしおりさんが、病室に材料を持ち込んで、宮本専務にラーメンを作ってもらったそうです。もうこの時、佐野さんの体は限界に近づいており、頬はこけ、手は震え、手助けがないと食べれない状態になっていたという。しかし、このラーメンだけは自分で箸を握って食べたそうだ。これが最後の一杯になると悟っていたのだろう。

最後までラーメンにこだわった佐野さんの人生でした。今度は弟子達にその味と厳格なルールが継がれていくはず。

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