松平健の妻が亡くなってからの家庭状況は!息子と奮闘中
俳優の松平健は1990年に女優の大地真央と結婚しましたが、2004年に離婚。2005年10月に14歳年下の元タレントの松本友里と再婚。2006年10月に長男が誕生。その後、2010年11月に友里夫人は亡くなってしまいました。
妻・友里の死は息子には伝えなかった
2010年11月に松平健の妻・友里が自ら命を絶ちました。その原因は実の母が死んでから鬱状態にあったことが原因と報じられました。一番かわいそうなのは、何も知らないまま母が死んだ子供。当時4歳の子供にはお母さんの死をまだ伝えていないと報じられました。
「きれいでした。もう眠っているみたい。なんかあったらおきてくるんじゃないかって・・・。いつものまんまでしたね」
病院の一室で対面した妹の姿を兄はこう振り返った。
福岡での仕事を終え、松平健が、午後6時すぎに駆けつけた。
「健さんは私に向かって、申し訳ない、こんなことになってしまって・・・と頭を下げ、言葉も出ない様子で、ただ妹を見つめながら呆然と立ち尽くしていました」
一卵性母娘と自ら言うほど、友里さんにとっては鈴子さんは最愛の存在だった。
「私たちは双子みたいな存在だからね!というのが妹とお袋の口癖でした。何をやるんでも一緒だった」
その母が10年ほど前から体調を崩し、友里さんは介護に全力を注ぐようになった。
友里さんが母のためにと都内に一都建を購入したのもこの頃だった。
その後に、松平健と出会い2005年10月に入籍し、2006年10月には長男を出産した。(2010年当時4歳の健太)
「妹はお袋を一心同体となって支え続けました。良くなることを信じていた。でも、母の病気がもうだめだということがわかったあたりから、妹の様子がかわっていった。こんなに大好きなママがどうしてって・・・」
母が亡くなってから、妹は心をふさぎ込んでしまったようだ。
でもしばらくすると、「おふくろが亡くなったのは順番なんだから。最後の介護はおふくろが用意してくれたお別れの準備だったんだよ」と私が話すと、「そうだよね。これで区切りをつけて元気になっていくんだよねといってたから・・・」
兄からみれば、妹は1児の母としての強さもあるはずだった。
「健太の存在が、妹の助けになるはずだと思っていたんです。母のかわりになってくれると・・・」
兄の前では気丈に笑顔を見せていた友里さんだったが、夜になると自宅の一室でひとり泣きじゃくるようになっていったという。
ヘビーシッターが泊まりがけで健太くんの世話をするようになったのも、母が亡くなってからだ。
「妹はシッターさんのことを本当に信頼していました。シッターさんは友人でしたから」
しかし、2010年11月15日に自ら命を絶ってしまった。
母の死は我々が想像するより遙かに大きなショックだったようだ。
「健太には母の死をまだ伝えていません。健太が一番受け入れられる状態、理解できる時にと・・・。環境が変わると何かあったって気付いてしまうでしょう?だからいつも通りの生活をさせています」
松平は、友里さんが、パニック障害、不眠症、うつ状態を引き起こし病院に通っていたことを明かしてくれている。
本来なら、子供のために生きると考えられるところを、死を選んだ方が子供は幸せだと考えてしまったのかも知れない。
母娘間の行きすぎた愛情が、悲劇を招いてしまったのかも知れない・・・。
3億円の豪邸を売却!家賃65万円のマンションへ
妻との思い出の家を2011年3月売却する。すでに3億円の家からは引っ越しも終えて、息子と一緒に家賃65万円ほどのマンションに移ったと報じられてました。妻が亡くなっても家に残るのはいやなので引っ越しをするのでしょうか?問題は3億円豪邸の買い手はあらわれたのでしょうか?
「2トントラックが5台ぐらい来ていたと思います。2~3日がかりで引っ越しをしてました」(近所の住民)
松平健が2011年3月上旬に豪邸から引っ越しをした。
自宅が完成したのは2009年。
妻・友里さんと長男のために、松平がこだわり抜いて建てた家だった。
「あの家では、2010年6月、友里さんの母が亡くなり、2010年11月には友里さんと1年で2回も不幸がありました。松平さんも、息子さんも、お母さんとの思い出が染みついた家が辛かったんでしょう。奥さんが亡くなってからすぐに、家の売却を頼んだそうです」(芸能関係者)
「最近、息子さんが夜泣きしているという話を聞きました。まだ不安を感じることが多いようで、お手伝いの人などが数人交代で、お子さんをひとりにしないようにしているそうです」(舞台関係者)
「以前の松平さんは、地方の仕事で1ヶ月以上、家を空けることが多かったんですが、今では公演の終わりに息子さんに電話を入れ、なるべく東京に戻るようにしています」
引っ越し先は、長男の幼稚園が近い場所です。
「子供が寂しがらないようにマンションを探したようです。3LDKの部屋なので家賃は65万ぐらいです」(地元不動産関係者)
売却予定の豪邸は土地と建物で3億円はくだらないようだ。
松平は子供のためにマンションへの引っ越しを決めたようだ。
「子供のことを考え、不幸続きを晴らし、気持ちを入れ替えるための引っ越しだと思います」(所属事務所)
引っ越しの翌朝から、自転車で幼稚園に息子を送っていたそうです。
不幸な家だったので売り払ったようですね。
2009年に完成してからまだ2年・・・。
松平健の家庭の状況は
子供のことを考えて豪邸を引っ越した松平健。2011年、家庭はどのように変化しどうなってしまってるのでしょうか。
松平健と長男・健太くんが暮らす都内のマンションの前には小さな公園がある。
そこで遊ぶ健太くんを少し離れて見守る40代後半と思われる女性がひとり。
松平家のベビーシッターで家政婦のAさんだ。
2010年11月に松平の妻・友里さんが自ら命をたった。
それからしばらくの間、健太くんはショックのあまり夜泣きがやまなかった。
そのためスタッフ総出24時間体制で健太くんを世話をした。
松平のシングルファザーを支えているのがこのA子さんなのだ。
彼女は妻が亡くなる前から松平家で働いていて信頼も厚い。
基本的に松平が家事や育児をしているが、仕事の時はAさんがしている。
松平がA子さんを雇い続けるのは、A子さんが担う役割は大きいこともあるが、健太くんにとって大きな存在になっている理由があるという。
「A子さんは、健太くんにとって母親代わりなんです。A子さんに辞められてしまったら、健太くんはまた母を失うことになる」
ただ、A子さんは何でも言うことを聞く、家政婦ではなくて、昔ながらの家政婦のようだ。
「健太くんが手を洗わずにおやつなどを食べようとすると、おやつを取り上げ手を洗うまで与えません。返事や挨拶ができないと、諭したりします」
松平家ではA子さんが支えているようです。
もしかするとA子さんとの再婚もあり得る?
悲劇の3億円豪邸が激安で売却される
豪邸から引っ越しをして2年目を迎えた2012年、ようやく3億円豪邸が売却されたそうです。
「あの事件以降、健さんは仕事中に家族の話をしなくなりました。でも、先日、ようやく終わって、息子も晴れて新学期が迎えられるかな・・・と漏らしていました」(テレビ局関係者)
松平健の14歳年下の妻・松本友里が2010年11月に亡くなった。
松平は悲しみを耐えて長男の育児に頑張ってきた。
「松平さんがほっとしてるのは、自宅が2012年1月末に売れたからでしょうね。2009年に地上3階、地下1階の3億円豪邸を建てました。しかし、あんなことが起こってしまって・・・。まだ築3年しか経っていない家を売りに出したんです。でも、事故物件ということでなかなか買い手がつかず、最終的には約3割引の2億円くらいでしか、買い手がつかなかったんですよ。それでも、あの悲しい思いでが減らせるならと激安で快諾をしたそうです」(芸能関係者)
松平は2011年3月に、家賃65万円のマンションに引っ越している。
長男の有名私立幼稚園から、徒歩でも通える場所を選んだ。
まだ幼稚園の時に母がなくなったが、長男は2012年から年長になる。
「今では息子さんも、いろいろ理解できる年になりました。自宅売却が終わり、一通り整理ができたので、息子にママの死を伝えたようです。毎月の月命日には、ふたりでお墓参りもしてます」(別の関係者)
2年目の春にようやく、穏やかな生活を迎えようとしている。
松平健、頑張るシングルファザー奮闘記
芸能活動で忙しい中、長男の元気を取り戻そうと、松平健は、一生懸命に母の代わりをこなしていることが2013年4月に報じられました。
正装した親子連れが、次々にその小学校の門をくぐって行く。
子供の晴れ姿に誇らしげなママたちの中で、緊張した面持ちで歩いていたのが松平健だった。
彼が手を引いているのは6歳の息子だ。
松平とは対照的に子供は楽しそうだった。
松平の妻は2010年11月に亡くなった。
それから深い悲しみを抱えながらも、シングルファザーとして頑張ってきた。
「基本的に松平さんは、毎日自分でお弁当を作っているそうです。朝7時に起きて、朝ご飯の支度をしながら、おにぎりやだし巻き卵を作るというのですが、唐揚げもコロッケも冷凍食品があるから便利と言っています」(芸能関係者)
息子が小学校に入学する前は、パパ友と飲みに行ってはいろいろと相談をしたという。
「学校の様子とかを含めて、すでに小学生の子供がいるパパ友にいろいろ聞いて準備をしていたようです。子育ての相談なんかもするようですが、松平さんはあまりにもできたシングルファザーですから、他のパパ友たちが、妻任せの子育てに反省するようです」(同上)
2013年のインタビューでこのように言っている。
母が亡くなったときは、息子は4歳になったばかりで、当初は寂しがって母のことをよく口にしていた息子が、母の死を受け入れたことを明かしてくれた。
「お母さんは星になったんだよと説明すると、幼いながらも亡くなったことを理解したようです。今はもう母のことは言わなくなりました」
さらに、息子は日々成長しているという。
例えば、息子が自分と電話で話すときは甘え声なのに、よその人と話すときは、敬語を使ったりする。
どこでそんな大人っぽい言葉や難しい単語を覚えてきたんだろうとはっとするという。
また、物を出しっぱなしにしていると、息子が、お父様、それ使わないの?と聞いてきて、ああというと、だったら捨てようと、自ら片付けるという。
松平の姿にこたえるかのように成長する息子に、松平もかなり嬉しいようだ。