名脇役・深浦加奈子の癌と闘った父親が明した5年間の闘病記
女優の深浦加奈子は大学在籍中に旗揚げされた劇団に参加し退団後フリーに。1990年代前半からドラマで印象的な脇役を演じ注目される。主な出演作品は「家なき子」「スウィート・ホーム」「ナースのお仕事」「私の青空」「ショムニ」など。しかし、2008年8月にS状結腸がんのため48歳で死去されています。
深浦加奈子の壮絶な闘病生活
父親が明かす、深浦加奈子の癌闘病記。かな子が亡くなった・・・。
こんなことがあっていいのだろうか。
心はつぶれ、何かとてつもなく寂しい陸か奈落のふちにたたされているようだ。
今までに味わったことのない悲しみが全身を浸し、体がすくみ、頭の中は真白で思うことの中心が定まらない。
私は彼女に何をしてあげたのだろうか、などという繰言(くりごと)が終始頭の中を駆け巡って行く。
少し時間を置いた方がいい。
女優・深浦加奈子さん(享年48)が亡くなってから4ヶ月。
48歳の若さで亡くなった愛娘への思いを綴った日記を週刊誌が紹介しています。
父親である栄助さんと母親の京子さんは、悲しみの日々を送っていた。
二人は娘との思い出を振り返って涙しているという。
2008年8月25日に5年という闘病の末、S状結腸がんで亡くなった深浦さん。
深浦さんが初めて体の異変に気づいたのは、2002年の秋。
「お腹が痛い」といって受けた産婦人科検査でも異常は見つからず、伊丹も一過性ですぐに消え安心していたという。
しかし2003年3月、美女と野獣の収録が終わると同時に都内の病院に緊急入院。
そして下されたのがS状結腸がんとの診断だった。
2003年のがんの手術の日のことは、生々しく日記にこう綴られていた。
2003年3月24日、ステンレスのトイレの上に長さ15~16センチメートル、幅7~8センチメートルの肉片がのせられている。
医師は病気の箇所をさすのだが、私には無造作に断ち切られた一様の赤地の布がただ眼前に拡がっているように見えた。この肉片こそが癌の巣窟だった。
触ってみますか?と医師が手袋を差し出したが、私の手をかいくぐって母の手が伸びた。
リンパ節を別にすれば、何処がどうなっているのか皆目見当がつかず、私はおざなりに触れただけで手袋を脱いだ
「奥の方のリンパ節に移転している可能性もありますので、抗がん剤についてのご相談もその時あらためてしたいと思う」という医師の話があった様だが、その時、私はたぶん別のことを考えていたのだろう。
どうしてこんなことになったのか。
青天の霹靂。
あまりにも無造作にやってくるではないか。
俺がかな子の腸の部分を引き受けられるものか。
体質が問題であるなら、かな子が宿命的な立場に立たされたのも私たちの先天的形質にそれがもとめられるだろう。
俺は万死に値するな。
愛する娘へ父が医師から告げられたのは、予想をはるかに上回る「末期がん」の宣告だった。
3月の初めの土曜日「お好み焼きは私が作るよ」と珍しく健気なところを見せた彼女が具を混ぜ合わせている時、激痛が走った。身をよじり背をかがませて耐えている。
翌日、仕事中にも同じ激痛が走り、近くにあった救急外来に飛び込むことになった。
CTの画像には、はっきりと不穏な形をした肉塊が腸道を塞いでいた。
3月10日に入院をし、その2週間後にはメスを入れた。
このときは2ヵ月ほどの静養で一度は仕事に復帰した。
だが手術後、腸閉塞を起こすようになった深浦さんは、仕事で迷惑をかけるといって所属していた事務所を辞め治療に専念した。
しかしその後、がんは肝臓に移転、3年後にはまたたく間に肺、全身へと広がってしまった。
2006年8月18日、かな子の具合が悪い。昨日の検査で淋巴腺腫大と肝臓癌の診断が下されたという。
病名だけなら明日をも量れぬ命という印象をうける。
医師はすみやかに手術を行うことをすすめたが、かな子のテレビの日程の都合を優先し、九月半ばに行うことに決まった。
もはや一刻の猶予もない筈だが役者の魂がそれを許さなかったのか。
かな子は、明るく振る舞っているように見える。
私達も努めて平常心を装っている。
しかし一皮むけば不安をに押しひしがれた黒々とした心の闇がはっきりと見てとれるのである。
私達の責任と母は言い切る。株を売って病院掛りの経費を作ってきたとはいかにも彼女らしい手回しのよさであるが、その裏側に並々ならぬ気持ちの重さが感じられる。
2006年9月、かな子の癌は胆管癌、肝臓の細胞が癌化し肝臓に腫瘍が発生したというわけだ。
医師は進行が早く、手遅れになる可能性が高い、しまも適当な抗がん剤がみつかっていない。
手術の予後は一応平静に見えるが、選抜された抗がん剤の結果をいま、瀬踏みしているところだ。
本人は不安感にさいなまれているだろうと察しがつくが本人はその様な気配をさとられないように努力しているのが痛々しい。その奥底にあるいは落命の命運を予感しているのか。
あるいは不治と宣告されているのではないかと心の動きを追ってみたりする。
病気と必至に闘う彼女を精神的に支える新しい家族ができたのはこのころだった。
2007年1月、2006年の秋口にかな子が家の近所で子猫を拾ってきた。
ニコラス、通称ニコと呼び、それこそ可愛がっている。
腫瘍マーカーは以前として上がりっぱなし。
多分臓器に移転というよりも、リンパの中枢、あるいは播種状に移転する可能性が高いという医師の診断はもはや回復への期待を全く抹殺してしまった。
ようするに手の打ちようがないってワケよ。とかな子は云う。
2008年3月、かな子はごくわずかばかり己の病態について話をすることがある。
大きな声で明確に、そして平穏な言葉で・・・。
母はその時、彼女の目を喰い入るほどにみる。
かな子はそれに笑顔で応え、話題はすぐに切り替わる。
苦しい時、肩をさすり、足をもむときと同じような暖かみが母から伝わるのだろう「わかったわ、お母さんありがとう」と、かな子の表情はそういっている。
かな子の理性は健常である。
朝と夕刻時には三人一緒のことが多くなった。
そして7月末には「描けなかった2枚目の絵・原爆が落下された日の記憶」というドキュメンタリー番組のナレーションの仕事を引き受け、姉に付き添われ広島に。
思うように出ない声を気力で乗り切った。
しかし東京に戻ると容態は急変する・・・
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2008年8月4日、8月に入ってかな子の調子はすこぶる悪い。
恐らく肺はほとんどつぶされているようで、呼吸もままならない。
食欲はまったくなく、かろうじて流動食で立ち居振る舞いをわずかに支えている状態で、見るのも痛々しい。
一切弱音を吐かず、毅然としているものの、それもときにより崩れ折れる時もあり、母が心を尽くしてあつらえるわずかばかりの食膳を前にし「お母さんに申し訳ない」と涙することもある。
この状況だと、体力が皆無になり、物理的に生命の維持さえおぼつかない。
入院を勧める家族に対し「一度入ったらもうでてこれないから・・・」と言を左右していた本人に、母の強引な勧誘とさすがに限界に達した己の肉体に見切りをつけ今日入院することになった。
不思議なことにかな子は、やつれているけど、一層ろうたけた美しさを見せている。解脱した表情というか、あくまで白く抜けたような顔色の中に尊厳さが透けて見えるようである。
2008年8月18日、かな子の状態が非常に悪い。
肝機能が低下し、黄疸が出ている。
呼吸も思わしくなく「体の何処が痛いというのではないけど、体全体に不快感がある」という。
母は「ここの医者はもうサジを投げている・・・と感じがする。ねえそう思わない?」というのだが返事に窮するところだ。
肺が半分潰れているから酸素の供給がままならない。
少しづつ酸欠の状態が続き、脳はそのうち麻痺するだろう。
意識の混濁が始まれば命運はつきるのが早い。
手のうちようがない状況が現出するのは目に見えている。
そのことを母もよんでいるのだろう。
今日、かな子を見舞ったが勅使するに忍びない様相で胸が詰まる。
私との会話はほとんどない。
母とのやり取りで、それも一言二言で息を整えるだけで精一杯。
この直後から病状は悪化の一途をたどり、8月22日にはほとんど会話も出来なくなってしまった。
そして8月25日午後10時57分に母と父をはじめ、家族が見守る中、息をひきとった。
深浦さんの死から7日後の9月1日。
栄助(父)さんは亡くなってからしばらく綴ることができなくなっていた日記を再び開いた。
娘との最後の会話についてこう綴った。
亡くなる3日前くらいから口が思うように動かなかったが、意識は明晰で見舞い客に対して「いっぱいしゃべることはありますが、ゆっくりしかしゃべれません・・・」と書いたボードをベッドの横に置いたりしていたのだが最後が「ニコに全財産あげる。あとは父・母・姉・義兄で分け、あまったら恵まれない人にあげてください」と書き残した。
2008年10月10日、家の応接間の隣家に接した窓側にかな子の遺骨を置いていた。
この室はいまは私にとって非日常的な場となっている。
大きな遺影と生花。悲しみにみち溢れていて其処に長居をすると一種特異な雰囲気に支配されてしまう。
「お母さん、私大丈夫。もういいの」母が最後に聞いた彼女の肉声はこれであった。
深浦さんは亡くなる2ヵ月前「私が死んだら、骨は海に撒いてほしい」と話始めたという。
栄助さんは「もう少し娘といっしょにいたい」といって遺骨はまだ自宅に安置されていたという。
その後、遺骨は神奈川葉山町の相模湾に散骨されたそうです。
深浦さんの詳しい闘病については、父・栄助さんが著した「加奈子。何をしてやれたかな女優・深浦加奈子の父が綴った、大腸ガン闘病記」にまとめられています。