山口美江が亡くなった原因とは!過去には渡辺正行と交際も
元タレントの山口美江は社長秘書、通訳を経て、1987年にテレビ朝日「CNNヘッドライン」でキャスターとしてタレントデビュー。フジッコのCMに出演し「しば漬け食べたい」のセリフでブレイク。「天才たけしの元気が出るテレビ」などバラエティやドラマで活躍。1996年に芸能界を引退。2012年3月に51歳で亡くなっています。
山口美江の死因の原因
2012年3月8日に自宅で倒れているところを発見され、検視の結果前日に亡くなっていたという山口美江。当時、父の介護のため疲れ切って別人のように老いてしまった苦労人・山口美江が話題になったりしました。
心不全で山口美江が亡くなった。親族により自宅で倒れているのが発見された。当時、体の不調を訴えて通院もしていた。彼女に何があったのだろうか。
山口の親族A氏が重い口を開いた。
「美江は毎週木曜日に外国人のメイドを頼んでいた。いとこのBによると、そのメイドが倒れているのを発見し、近くに住むBに連絡しBが駆けつけて人口呼吸で蘇生を試み、110番したという」
メイドがすぐに110番しなかったかは疑問が残るが、外国人であるためしょうがなかったのか・・・。
それより気になるのはA氏の証言。
「Bは3日前くらいに、美江から、私に何かあったら後のことをよろしく頼むねと言われたらしい」
亡くなる前に残した言葉。
病弱で弱きになって、茫然と今後のことを頼んだだけかもしれないが、遺言ともとれるような意味深の言葉は、将来を悲観し覚悟していたのかも知れない。
そのこともあって、A氏の頭をよぎった過去の出来事。
「太ったりして騒がれて、引退を表明する前かな?芸能界に疲れた様子でね。突然、実家から荷物を運び出し、父親を一人残して近くのマンションに引っ越してしまったんだ。何ヶ月か後、そこで首を刃物で切って騒動になったことがある。その時は、その場に父がいたので事なきを得たけど、今回の死因の心不全ってのもね・・・」
認知症だった父は2006年に亡くなったが、それまで長期にわたって介護をしてきた。
その疲れもあったのだろう。
山栗は強い酒をストレートで飲み、ここ数年は内臓と肝臓を壊していたという。
「肝臓の血糖値に異常が出て、体のむくみなどで入院することもあった」(親しい関係者)
2012年2月には体調がますます悪化し、「動悸、息切れ、まめいがひどく、病院で検査したけど、具体的な異常なしという診断で点滴治療していた」(警察関係者)
このように体調はよくなかったようだ。
私生活でも経済的に苦しかったことがわかってきた。
芸能界引退後に始めた横浜中華街での輸入雑貨店も2011年限りで閉店していた。
「初めは話題になってお客さんが来てくれたけど、段々と客足が伸びなくなってきた。困ったら頼んでテレビにだしてもらうのと話していたから、やっぱり不景気だったんじゃないでしょうか」(A氏)
両親に先立たれ、仕事もうまくいかず、体調もすぐれない。
悩みは深かったのだろう。
孤独死を恐れていた山口美江の私生活
51歳という若さで亡くなった山口美江。芸能界引退後の生活については報じられてましたが、私生活については報じられていませんでした。いろいろ悩みを抱えていたそうです。
2012年3月8日、電話をしても応答がなかったため、心配して訪ねてきたいところに発見された山口さんは、リビングで服を着たまま倒れていた。
すぐに救急車が呼ばれたが前日の7日に亡くなっていたことがわかっている。
2月からは病院に通院していたが、詳しい死因は不明だった。
「亡くなった日の午前11時半頃だったかな?山口さんは犬を2匹連れて散歩に出掛けてました、なんか具合が悪いんですっていってましたけど、本当に普段と変わらないように見えたんですが・・・」(近所の住民)
小学校から高校まで横浜の名門インターナショナルスクールで学んだ山口。
大学卒業後には外資系企業や社長秘書や通訳、モデルなどを経験し1987年にCNN ヘッドラインでキャスターデビューをした。
山口の芸能活動は順調にみえたが、波乱に満ちたものだった。
始まりは1989年に渡辺正行との熱愛発覚だった。
「人気絶頂だった婚と赤信号の渡辺さんと、知的で清純派のイメージだった山口さんとの交際は、連日ワイドショーで見ない日はないほどの盛り上がりでした」(芸能関係者)
そんななか、渡辺と10年間付き合っているという恋人が現れ、そうしてるうちに別の一般女性と渡辺は電撃結婚してしまった。
この時の山口は人前では明るく振る舞って、「気にしてないわ」と笑っていたものの、人目のつかない所では泣いていたという。
その後もスキャンダルは続く・・・。
歌手の布施明との恋や、元マネージャーの横領問題など・・・。
そして、山口の笑顔は薄れていった。
いつしか、激やせや激太りを繰り返すようになった山口さんは、1996年に芸能界を引退し、横浜で雑貨店を経営し生活をしていた。
しかし、店をオープンしてから5年も経たない頃に父に異変が起きる。
「俊雄さんの物忘れがひどくなってきて、簡単な計算もできなくなったんです」
日に日に、父の行動がおかしくなり、病院に連れて行くとアルツハイマー型認知症だった。
父の介護に全力を尽くした山口だったが、父の症状は悪くなるばかりだった。
「あるとき、お父さんが突然山口さんに、お前は誰だ!と詰め寄ったんです。パスポートを見せながら、美江でしょ!と思い出させようとしたんですが、偽造だろうと怒鳴られて・・・さすがに号泣したそうです」(知人)
2005年11月に山口は父を認知症の専門病院に入院させる苦渋の決断をした。
そして入院から1年足らずの2006年9月に父は死去。
最愛の父を失ってしまったショックからか、しばらくは、父と作り上げた大切な店も開けられずにいた。
悲しみはなかなか癒えなかったが、雑貨の仕事を再開し、自身が直面した介護の講演会やテレビなどで語るようになっていった。
しかし、このことが親戚との絆に溝を作ってしまう。
「俊雄さんの介護は山口だけでは手に負えない部分があって親戚の人たちもかかわっていましたから。だから、自分ひとりだけで介護したように語る山口を快く思わない人がいたんです。介護は私達もがんばったのにって」(知人)
中でも、親族のひとりAさんとの関係は著しく悪化していった。
「Aさんは俊雄さんを実の父のように慕っていました。だからアルツハイマーになった時も、美江さんと同じかそれ以上に真剣に介護をしたんです。病院を紹介したのもAさんでした。俊雄さんが亡くなった時、遺書がなかったと美江さんはAさんに説明しました。遺産は全額美江さんが受け取りましたが、実の親子のようだったAさんにしてみれば、遺書に自分のことが書いてあるんじゃないかと、遺産相続を巡ってもAさんは美江さんに疑いを抱いていました」
親しい友人には「あまりいい関係が築けない親族がいて、血が繋がっていてもなかなか難しい」とこぼしていた。
そのゆえ、日々孤立していくのをひしひしと感じていた山口は孤独死を恐れていた。
彼女は買い物は大型スーパーにはいかず、毎日商店街へと足を運び、青果店、鮮魚店、精肉店の人達と必ず話しをするようにしていた。
「3日来なかったら、ちょっと気にしてもらって」と商店街の人に頼んでいたという。
そして、震災後、今後の人生を改めて考え始めた山口は、2011年5月で雑貨店を閉めていた。
「いままでは自分のために生きてきたけど、これからはもっと世の中のため、子供達に本を寄付したり、社会のためにやっていきたいと話していました」(知人)
その思いを果たせず山口は逝ってしまった・・・。