丸岡いずみは震災うつで降板も結婚した旦那・有村昆が救う
フリーアナウンサーの丸岡いずみは、1994年に北海道文化放送にアナウンサーとして入社。1999年にフリーに転身。2001年に日本テレビ報道局に中途入社し、社会部記者兼キャスターとして勤務。 2008年3月から「情報ライブ ミヤネ屋」のニュースコーナーを担当し人気に。2012年8月に映画コメンテーターの有村昆と結婚し、同年9月に同局を退社しています。
丸岡いずみキャスターいじめが原因か?精神的にストレスで番組降板
日テレで人気のあった丸岡いずみキャスターが2011年8月に番組を降板。降板の理由は、当時はっきりしてませんが体調不良による原因が濃厚でした。2011年10月、実家の徳島で静養してたようですが、体調が悪く、精神的な面が大きかったようです。
ニュース番組を降板した丸岡いずみキャスターが表舞台から消えようとしている。
2011年8月30日から休養していたが、同年9月30日に正式に夕方のニュース番組を降板した。
週刊誌では実家のある徳島で静養しているところが報じられたが日テレには出社していないという。
「放送中に丸岡がかんだりすると、アナウンスルームから歓声が上がることもあったそうです。そういう環境に耐えれなくなったのでは?」と日テレ関係者。
「復帰後はすでに報道記者に戻すことが決まっている。社会部記者が有力視されています」(同上)
普通なら体調不良で長期休養していた人を、体力的、精神的にもきつい報道記者に戻すことを避けるのだが、そこには事情があるようだ。
「中途入社の丸岡は、職種別採用で報道局に入社したので、原則的に異動はない。なので報道記者に戻らざるを得ないんです」(別の関係者)
そして退社説まで浮上しているという。
「このまま日テレを辞めると思います。さすがに記者として戻ってくることはないでしょう」(日テレ報道局関係者)
復帰して、厳しい報道記者に戻るのか、それとも退社をするのか人生の岐路に立たされていたようです。
休養の理由は震災鬱だった
奇跡の40代といわれるほど男性から大人気の丸岡いずみアナ。休養が発表された時は、具体的な理由などは明かされず、いじめが原因だったと報じられたこともありましたが、真相は東日本大震災による震災鬱だったようです。この震災で彼女は一体どういった心の傷を負ってしまったのでしょうか?
2011年11月11日で東日本大震災から8ヶ月が経過した当時。
死者15835人で行方不明3669人。
瓦礫の処理も進んでいない地域もあり、いまでも震災の傷跡は深い。
そして震災の影響は被災者以外にも現れていた。
その一人が丸岡いずみキャスター。
2001年に日テレに中途入社し、情報部記者としてミヤネ屋に抜擢され人気者となった。
2010年3月には、News everyでキャスターに抜擢されたが、2011年8月29日の出演を最後にテレビ画面から消えた。
体調不良を理由に降板することが発表された。
この休養をめぐって様々な憶測が飛び交っていた。
「視聴率の低迷」「上司のプレッシャー」など報じられた。
「実は震災鬱だったようなんです。丸岡さんは3月11日の震災直後から被災地入りしました。丸岡さんは水も出ない安ホテルに宿泊し、お風呂にも入れず、下着も替えられない状況だったんです。それでも不満を言わずに取材していました」(テレビ局関係者)
もともと仕事は手を抜かない全力投球の性格が今回は仇となってしまったようだ。
肉体的な疲労が限界に来るなかで、悲惨な現場を目の当たりにしていった。
「ヘリで移動して、一番被害が大きかったところを中心に取材したので、目を背けたくなるような遺体の数々を見てきました。また飛んでる時に、学校の屋上などから手を振っている人がいても、報道のヘリでは救助もできない。そうしたことに無力感を感じてしまったようです」(テレビ局関係者)
体力の限界のなかで見た光景でさらに精神的にもダメージを受けてしまったようです。
一生のトラウマものになってしまったようです・・・。
丸岡いずみアナと結婚した夫・有村昆氏の仰天生活と趣味
待遇が悪くて日テレを退社した丸岡いずみ。実は退社は結婚を見据えての寿退社だったのでしょうか?
そんな丸岡アナが結婚をした相手は、映画コメンテーター・有村昆氏。この夫の仰天私生活が2012年10月に報じられました。
丸岡が有村氏との結婚を報じられると周囲の関係者からは、
「ほんとに素晴らしいパートナーなのか?」と心配する声があがった。
「有村氏の父は有名ホテルチェーン店の副社長まで務めたお金持ちです。有村はボンボンで、中学生までは自分で靴下をはいたことがなく、吉野家に入ったのも20歳ですよ。いまでもお父さんから100万円のお年玉を貰うと聞いています。典型的な世間知らずですよね」(有村の知人)
世間知らずのためか、映画業界でも勘違いぶりは・・・。
実は映画評論家なのだが、映画を見始めたのは2000年からというから驚きだ。
「映画コメンテーターになったのも事務所の方針ですね。年間400本は見てると自慢をしてますが、有名作品ばかり見て、過去の作品をみないので、評論ができないと批判されてます」(映画関係者)
「有村の名刺の裏には、キアヌ・リーブス、ブラッド・ピットにインタビューしたと書いてあるが、実は来日記者会見で質問しただけなんです(笑)。自分を大きくみせたがるようです」(芸能プロ関係者)
実家が金持ちなので生活には困らないようだが、問題は女性だという。
「有村の女性好きは有名です。パーティーや合コンによく顔を出してお気に入りをお持ち帰りする。よく失敗をしてますけど(笑)。合コンばかりするため事務所から一度クビになりかけたことがあります」
(テレビ局関係者)
スピード結婚だっただけに、丸岡の妊娠説も一部では報じられていますが、否定をしてますね。
このような夫で丸岡は大丈夫?と心配されていました。
丸岡いずみアナが降板した理由はうつ病!救ってくれたのは夫・有村昆
丸岡いずみキャスターが報道番組から降板し休養してから2年。体調不良や局内でのいじめが原因などと報じられましたが、真相は東北大震災の影響などで心にダメージを受け、ストレスが溜まってしまったことでうつ病になってしまっていたようです。うつ病の闘病生活を告白しています。
「私はもうダメです・・・。徳島に帰らせて下さい」
2011年8月29日、本番が終了した後、私は上司にそう訴えました。
その日は、民主党の代表に野田前首相が選ばれた日でした。
私は原稿の山や川といった漢字にまで振り仮名を書き込んでいました。
そうしなければ不安でしょうがなかったからです。
この不安は、取材していた昼頃から続いていて、普段ならスラスラ出てくる言葉が途切れ途切れになっていました。
秒刻みのリポートをしなければいけないのに、思い通りに言葉が出なかったのです。
それでもなんとかスタジオで本番を終えたのですが、この日、私の中で何か折れたのがわかりました。
上司は私の訴えに異変を感じてくれて、「丸岡いずみは夏休み」と番組内ではそのように都合をつけてもらいましたが、当面東京には戻ることはできないだろうと自分でもわかっていました。
今考えれば無自覚なままストレスが溜まっていたんだと思います。
そんななかで、2011年に東日本大震災が起きました。
翌日には岩手県陸前高田市に入り、想像をはるかに超えた光景を目の当たりにしました。
瓦礫で覆われた地面に打ち上げられていた遺体は、どれも損傷が激しかったです。
「とてもカメラに映せない・・・」
何を伝えればいいのか、ただ呆然と立ち尽くしていたことを覚えています。
1回目の被災地取材では2週間近く滞在しましたが、この時に、頭皮に湿疹ができました。
メンタル面が原因だとは思わなかったのですが、湿疹はなかなか消えませんでした。
2011年6月には、海上自衛隊の護衛艦に乗って行方不明者の捜索に密着する3泊4日の取材をしました。
いつ遺体が見つかるかもわからない、非常に緊張感の高いものでした。
損傷の激しい遺体が発見されるであろうことはあらかじめ説明を受けていましたが、実際に目にした時は息をのみました。
そういった経験が心身に過重なストレスを与えてしまったのでしょう。
2011年7月には、体調に変化がでました。
あまり眠れなくなったり、お腹が空かなくなったんです。
それから1ヶ月後の2011年8月中旬には、とうとう一睡もすることができなくなり、食事も摂ることができなくなりました。
病院で診察をしてもらうと、自律神経失調症ではと言われました。
その1週間後に仕事ができなくなりました。
徳島に戻った理由は、このまま東京にいたら自殺しかねないと考えたからです。
徳島に戻っても、私の精神状態はすべての思考がマイナス方向へと向かっていました。
そして、内科医をしているいとこから、精神科医を紹介してもらい、週に一度通うことになりました。
診断の結果は、うつ病でした。
睡眠導入剤や抗うつ剤を処方されました。
当時は、この薬を飲むと別人になってしまうような気がしたので、薬もほとんど飲みませんでした。
その頃、私がなかなか番組に戻らず、実家周辺でみかけることもあるということで、地元ではちょっとした騒ぎになりました。
そして2011年9月下旬に週刊誌に休養中の姿が掲載されました。
この記事を見て、ますます不安になりました。
盗聴器やカメラが仕掛けられていないとか、お風呂やトイレに入ることも恐怖を覚えてるようになりました。
そこで、いとこが勤める病院の内科病棟に入院することになりました。
そこから別の病院の精神科医の先生の元に通うようになりました。
2011年11月に入り、病室での生活は2ヶ月ほどになっていましたが、だんだんそこで匿ってもらうことが難しくなり、実家に戻ることになりました。
しかし、この環境の変化が症状を悪化させてしまいました。
実家では、再びマスコミに監視されているという恐怖心が蘇り、家の中でも一カ所にとどまることなく、常にウロウロしていました。
そんな私を両親は辛抱強く見守ってくれました。
不安で眠れない、40歳を過ぎた私と添い寝してくれたり、髪の毛が数本抜けたことの不安を口にすると、「大丈夫!髪の毛いっぱい残ってるじゃない」と声をかけてくれました。
でも、私は母にこんなことを言ってしまいました。
「体が思い通りに動かない。お母さんにヒ素を盛られたからだ!」
ヒ素が体に与える影響を記者として取材した経験が、こんな場面で母を傷つけることになったのです。
最も危険な状態だったのは2011年11月終わりの頃でした。
居間で横になっていて、突然呼吸ができなくなったのです。
ただ、口をぱくぱく動かす姿を見た父は、私を精神科に運び込みました。
病院で安定剤のようなものを注射されて少し落ち着いたようです。
そして、そのまま精神科に入院しました。
実は以前に精神科への入院を勧められていたのですが、病棟を見学した時に、裸で走っている患者さんがいたり、病室の冷蔵庫がボコボコになっているのを見たりして拒否反応を示してしまったんです。
でも、精神科への入院は大正解でした。
最悪の状態だった私が2週間でこっちに戻ってこれましたら。
2011年の大晦日に仮退院することができました。
その日、最初に連絡をしたいと思った人が、その後に主人となる映画コメンテーターの有村昆です。
有村は、私の入院中にアメジスト石を送ってくれました。
心が安定する効果があるからと。
過覚醒症状のために工事用の耳栓を探してくれたり、アロマオイルやぬいぐるみなど癒しグッズも送ってくれました。
しかし、うつ地獄にいた私は、彼の事をストーカーだと思い込んだこともあったのですが、彼はうつ病に関する本を何冊も集め、うつ病について勉強していたのです。
彼と会ったのは、その時の7月でした。
友人のつてで食事会を開き、初めてお会いしました。
しかし、その時、私の体調はすでに悪く、とても交際をするなどという気分にはありませんでした。
ですから、2011年8月末に徳島に帰るまでに2回デートをしただけです。
7ヶ月ぶりのデートは2012年3月下旬でした。
徳島まで来てくれて、観光地をドライブして、眉山で交際を申し込まれました。
ほぼプロポーズに近い言葉でしたが、その時は結婚をイメージできませんでした。
嬉しかったですけど。
それから、徐々に交際をし、2012年8月に入籍しました。
退院してからうつ病の症状がぶり返すこともありません。
今は早く赤ちゃんを生むことが夢だそうで、2013年7月には芸能活動を再開しています。