島田紳助の生い立ち!亡くなった父に毎日お見舞いをしていた
元お笑いタレントの島田紳助は1977年に漫才コンビ「紳助・竜介」結成。つっぱり漫才で人気を得た。その後、1985年に解散。1989年から2004年までテレビ朝日系「サンデープロジェクト」のMCを務めるなど、多くのバラエティ番組の司会で活躍。2011年8月に芸能界を引退。1980年6月に結婚した妻との間に3人の子供いる。
島田紳助が亡くなった寝たきりの父に毎日お見舞いをしていた
2011年8月23日の引退会見から約1ヶ月沖縄の賃貸マンションで隠居生活し、次の隠れ先は京都市内にあるホテルだった。そのホテルからわずか徒歩5分の所に総合病院がある。同ホテルに滞在していた紳助は2011年10月20日まで毎日総合病院に通っていたという。
2011年10月20日、国鉄職員だった父・長谷川民雄さんが老衰のため亡くなった。
「紳助の父は、3月から寝たきりになって、自宅で療養していました。7月に肺炎で入院し、9月末には病院のホスピス施設に移ったんですが、10月にまた肺炎になって、一般病棟に戻ったようです。亡くなる数日前に一度危ない状態になったことがあったんですが、そのとき紳助さんは一晩泊まってつきっきりで様子をみてたようです」(紳助の知人)
紳助の父は1924年に、染め物店の次男として生まれ、商売人は勉強する必要はないという考えを教え込まれ、幼い頃は勉強させてもらえなかった。
その経験から、ひとり息子の紳助には小さい頃からしっかり勉強をさせたいと思い、小学校3年から家庭教師をつけた。
しかし、紳助は勉強を強制する父が嫌いだった。
「そのせいで自分はあほになった」とたびたびいっていた。
父は、酒もしない、たばこも吸わない、浮気もしない、毎日午後6時45分に帰ってくると真面目人間だった。
紳助はそんな父を「何がおもろいねん、このおっさん。鳩みたいやな」とインタビューで語っている。
国鉄の昇格試験で筆記はパスするのに、最後の面接では受からない。そして落ち込む父の背中をみて、子供心に「人間真面目だけではいかん」と強く思うようになった。それが紳助のつっぱり人生の始まりだった。
紳助は京都市立八条中学時代は教室の窓ガラスを割ったり、盗品を売りさばいたりしていた。京都の大谷高校に入ると車上荒らしで少年鑑別所に送致されたりもした。それでも父は「話せばわかる」という考えだったから、紳助を叩いたことはなかった。紳助が進学した京都学園大学を中退し、漫才師になることに父は猛反対をしたが、最後には「好きにしろ」といって背中を押してくれたという。
中々、芽がでなかった紳助は、1981年の漫才ブームの時にブレイクし頂点に立った。1990年サンデープロジェクトの司会に抜擢されたことが大きな転機になる。2005年にはヘキサゴンで企画からかかわりおバカ旋風を起こす。父は、そんな紳助をテレビでみるのが日課になっていった。
「サンデープロジェクトの時は、若いときは勉強せんかったのに、いまになってものすごく勉強しているって嬉しそうでした」(地元住民)
一方の紳助も親孝行をずっとしてきた。
「実家はもともと長屋だったんですが、何度も増築して3階建ての立派な一軒家に。年金だけでは足らないやろ?と、20年以上も毎月30万円の仕送りをしてきたんです。東京での仕事が忙しくなってからは、近所の人のところに、親をよろしくおねがいしますと挨拶してまわったそうです」(芸能関係者)
父の葬儀は、紳助の実家に近い斎場で営まれた。喪主は母親で紳助を含め30名ほどが集まった。
「きちんと親孝行したから泣くことはない」と少し痩せた喪服姿の紳助は、そのように挨拶したが、目には涙をにじませていた。
紳助の引退騒動がなければもっと華やかに送る予定だった。近所の人も父が亡くなったのは回覧板で後日しったという。見送る命あれば迎える命もあり、東大の大学院を出て当時九州に住んでいた次女には女の子が生まれていた。