桑名正博とアン・ルイスとの息子・美勇士との最後の会話

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ミュージシャンの桑名正博は1971年にロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成。1972年に「スィートホーム大阪」でデビュー。1976年にソロデビューし、「セクシャルバイオレットN0・1」がヒット。1980年に歌手のアン・ルイスと結婚。しかし、1984年に離婚。1986年に栄子夫人と再婚。2000年に実父の後を継ぎ「桑名興業」の社長に。しかし、2012年10月26日に59歳で死去。アン・ルイスとの間に誕生した長男・美勇士がミュージシャンとして活動しています。

桑名正博

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桑名正博が父から受け継いだ会社が倒産

2012年7月15日、桑名正博が脳幹出血のため、意識不明の重体で危篤状態であると報じられました。さらに残念なことに、医者からもう手術や積極的な治療はできないと・・・。奇跡の自然回復を願っていた。

桑名は歌手ですが、あまりヒットした曲がなく、問題ばかりおこしても歌手として活動できたのは、父が資金面で援助していたからのようです。そんな資産家の父の跡を受け継いだ会社も倒産したようです。

「また一緒に歌おうな!」「頑張れ!」
病室のベットに眠っている桑名の手を握り、妻と妹・晴子さんは声をかけていた。
2012年7月15日、歌手の桑名が自宅で脳幹出血のため倒れた。
すでに自発呼吸はなく、家族は最悪の事態を覚悟し、延命治療を拒否したという。

桑名は、1971年、ロックバンド「ファニー・カンパニー」のボーカルとしてデビューした。
ヒット曲に恵まれず3年後には解散してしまう。
その後は、ソロと活動してたが、1977年にコカイン所持で逮捕。
「ヒット曲がなくトラブルの絶えなかった桑さんが、その後もライブなどを続けられたのは、彼の父が資金面で援助してきたからです」(音楽関係者)

桑名の実家は江戸時代から大阪港で回船問屋を営んでいた。
父は貸倉庫業やゴルフ場経営などを手掛ける資産家だった。
しかし、そんな家柄に桑名は反発し高校を中退。
それでも父は桑名を見捨てずに事務所にかけあい、金銭的にバックアップしてきた。
そして生まれたのが、彼の代表曲でもあるセクシャルバイオレットNO1だった。
そして、1980年に当時人気絶頂だったアン・ルイスと結婚した。

翌年には長男が誕生したが、3年後の1984年、酒を飲んでは暴れる桑名に見切りをつけてアンが離婚を突きつけた。
「桑名さんは1987年にいまの奥さんと再婚し、子供も生まれました。その後、アンは不安定な生活を理由に、一緒に暮らしていた長男のことを桑名さん夫婦にお願いしたんです。再婚した奥さんは長男を我が子のように育てました」(音楽関係者)

しかし2000年に転機が訪れる。
父の死が桑名の運命を悟らせることになったのだ。
「父への恩返しにと、大阪に帰って会社を受け継いだのですが、すでにその時、バブル崩壊をあおりをうけて経営は火の車でした。700坪あった父の大豪邸を売り払っても立て直せなかった・・・」(桑名の知人)

家も会社も失った桑名は、「静かな生活がしたい」と、2006年に生まれ育った大阪を捨て、長野・軽井沢での生活をスタートさせていた。
穏やかな日々のなか、桑名は気がつくとギターを握っていた。
そんな父の姿をみた長男は、母のアンに、「親子3人でステージに立ちたい」と提案。
アンもタイミングが合えばと答えていた。
しかし、冒頭であるように桑名は倒れてしまった。
2012年8月7日には、59歳で芸能生活40周年の記念ライブを開催予定だった。

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桑名正博が闘病3ヶ月で力尽きる!息子・美勇士と交わした最後の会話

桑名正博は奇跡の回復は成らず、闘病生活3ヶ月で力尽きたようです。会見では長男・美勇士が延命治療をやめたとも思われるような発言をしていましたが、真相はどうだったのでしょうか?入院し医療費も月に50~60万かかって大変だったことも告白をしていました。

約3ヶ月も続いた驚異的な生命力で闘い続けたが、2012年10月26日午前11時44分ついに力尽きた。
息子の美勇士が、病室での秘話を語ってくれた。

「医学的にいえば、声をかけても本人には何も聞こえないし、手を握っても何も感じなかったそうです。でも病室では毎日話かけていました。声をかけることで僕らの胸の内も晴れるし、もしかしたら何かいい影響があるかも知れないと。お見舞いには500人ほどが駆けつけてくれました。桑名がこんなにも愛されているとわかって、すごく嬉しく誇らしかったです。1週間前には、陣内智則さんが来てくれました。恩義を感じてくれていたようで、栄子さん(現夫人)も、もらい泣きしたといって泣きじゃくっていました」

倒れてから数日間の山を越えて以降、さほど容体が変わらなかったが2012年10月26日の朝に急変した。
実は美勇士には死の前日に虫の知らせがあったという。
「昨日、名古屋ライブの時に、ふと父の顔が頭をよぎったんです。歌っているときも、終わって楽屋に戻ってからも何度も浮かんで、家に帰って寝ると、家族みんなでいる夢を見ました。きっと親父が伝えにきたんだろうなぁと思いました」

名古屋の自宅で死去の一報を聞いた美勇士は、自身の母でもあるアン・ルイスにすぐに電話をかけた。
「10秒くらい絶句をしていました。そうか、残念だねとひと言だけ言い残して電話を切りました。アンさんは僕の前では強がる人だから・・・」

美勇士が最後に交わした言葉は何だったのか?
「倒れる2週間くらい前、お互いにテレビの仕事で東京に来ていたので、収録がおわったらご飯でも行こうよと電話をしました。嫁が2人目を授かったことがわかったので、報告しようと思ってたんですが。親父は、今日はは疲れてるから、家に帰るわ。ごめんな。と元気のない声で申し訳なさそうに断りました。その時、2人目がお腹にいる、おじいちゃん2人目やでと伝えたら、急にトーンが弾んでよかったなあ!と喜んでくれました。結果的にこれが最後の会話になりました。思春期の頃は殴り合いの喧嘩をしたこともあったし、憎んだこともあったけど、でも最後の最後に報告できて本当によかったです。思い残すことはありません」

今後については、
「生前、どんな職業に就くにしろ、世の中に貢献できるような人になってほしいと話していた親父は、音楽でたくさんの人に夢を希望を与えてきました。僕ら子孫も何らかの形で世の中に貢献していると胸を張って言い切れる人間になりたいですね」

美勇士

桑名正博のマネジャーで元愛人の女性が治療費を捻出していた

約3ヶ月に及ぶ闘病生活で息子の美勇士が、月に50万以上かかる治療費のことを告白していました。その治療費のカンパをしてくれていたのが、マネージャーで元愛人である尾台あけみさん。桑名正博の奥さんも了承していたようです。

高さ15センチほどの小さな募金箱。
これは桑名正博が脳幹出血で倒れる直前に行われたライブでのものだ。
「あの歌声をもう一度」という言葉が添えられていた。

桑名さんの治療費カンパのためというこの募金箱を作ったのは、寺田農と婚約不履行問題で民事訴訟中の尾台あけみさん。
都内にある桑名さんの行きつけの店4カ所に、2012年10月に入ってから置いたという。

「私は桑名さんの個人事務所マネージャーをしているんです。5年前、桑名さんと彼の奥さんが私を助ける意味でマネージャーにしてくれたんです。このカンパは私の個人的な気持ちで勝手にやらせてもらっています。病院側からの説明で治療費が大変なのは把握していました。今の私にできることはこんなことしかなかったんです・・・」

桑名さんと妻・栄子さんが出会ったのは、1983年頃。
当時、桑名さんは1980年5月に結婚した前妻・アン・ルイスと婚姻中だった。
だが、桑名さんの度重なる浮気が原因で別居に・・・。
「アンさんは、まだ小さかった息子の美勇士くんを連れて家を飛び出した。桑名さんは何よりもかわいがっていた美勇士くんを連れて行かれて、痛々しいほど落ち込んでいました。ひとりでは生きていけない人でしたから・・・」(音楽関係者)

別居問題だけでなく、借金も抱えていた。
音楽だけでは生活できず、舞台にも挑戦した。
しかし、慣れない俳優業やセリフを覚えるのに苦労した。
ひとり暮らしの寂しにうまくいかない芸能活動。
毎晩、酒を飲んでいた桑名さんをみかねたピーターが紹介したのが栄子さんだった。
栄子さんは当時、劇団に所属していた女優だったようです。
音楽が好きで役者の気持ちがわかる人だからということで紹介をしたとのこと。

そして、ふたりは意気投合し、同棲をスタートさせる。
そして1984年にアンと離婚し、美勇士の親権はアンがもつことに。
桑名と栄子さんは、妊娠をきっかけに1987年11月に入籍をした。

桑名の父は大阪で廻船問屋をしていたが、酒癖の悪さが原因で母が出て行ったそうです。
高齢の父をひとりにできないから、1991年大阪へ引っ越す。
さらに、1994年にアンが桑名に、「美勇士が学校に行かない。助けてほしい」と連絡を入れたのだ。
息子が不登校になった原因は自分とアンにあると思い直し、美勇士を引き取ることを決めたのだ。
当初、栄子さんはこれに猛反発したという。
「大阪で暮らして3年経ってようやく落ち着いてきたのに、次は血のつながらない中学生になる美勇士くんと一緒に暮らせというんですからね。美勇士くんを愛せないかもしれないと離婚も考えたそうです」(栄子さんの知人)

さらに栄子さんの苦労は続いた。
桑名の女性問題だった。
酒を飲んでは女性を口説き、何度も浮気をしたそうです。
そして、冒頭の尾台さんも桑名の浮気相手のひとりだった。
桑名さんと栄子さんは喧嘩はしょっちゅうしていた。
それでも栄子さんが上手くバランスを取り、夫婦生活を続けてきた。

しかし、2012年7月に、兵庫県淡路島のライブ後に倒れた。
医者からは「もって2週間」という余命宣告まで受けた。
連日、栄子さんは泊まり込みで看病を続けた。
その思いに応じるように桑名さんも行き続けた。
しかし、この奇跡が栄子さんを苦しめることとなった。
治療費の問題だ。
もともとお金に無頓着だった桑名さんは、晩年はボランティア活動に力を注いでいたので貯金がほとんどなかったのだ。
美勇士は、会見では月に40~50万と言っていたが、実際には月に150万近くに及んだそうだ。

金欠でピンチになった時に立ち上がってくれたのが、尾台さんだった。
尾台さんと桑名さんが知り合ったのは今から20年前で、お互いの共通の友人の知り合いがいて、さらに自宅も近いことから親しくなっていった。
「桑名さんと男女の仲になったのは、大阪に引っ越していった20年ほど前からです。私が料理店で働いていた時に、よく仲間と一緒に来てくれて、私も2次会で彼らと合流してたんです。私はお酒が飲めないので、よく桑名さんを車で送り届けることになり、それが続くうちに・・・」(尾台さん)

桑名さんと不倫していることを知った栄子さんはもちろん激怒。
尾台さんを呼び、厳しく叱りつけたこともあった。
結局、これをきっかけにふたりの関係は終わり、尾台さんは、寺田氏と交際をスタートさせ事実婚状態になる。

だが、尾台さんはそこで裏切りにあったという。
寺田氏と結婚する話になって、それまで経営していた料理店を閉めて、彼の現場に付いて行くようになったのだが、寺田氏のマネージャーにはそれが面白くなかったようで、現場に出てくるな!と言われ、仕事を失ったそうです。
そして、桑名と栄子さんから、うちでマネージャーをしてくれと話をもらったそうです。

桑名さんと浮気をして憎んだ相手だったけど、栄子さんはかなりできている人のようで、尾台さんが苦しんでいるなら助けることを受け入れたそうです。
カンパの申し入れを尾台さんから聞いた時も、愛する夫を救うためならといって、受け入れてくれたそうです。

桑名正博

桑名正博の隠し子が発覚!ロックバンドで俳優活動をしている露敏

桑名正博に隠し子が発覚したそうです。しかも現在の妻は隠し子のことを知らされていなかった!一体誰との間の隠し子なのでしょうか?隠し子である露敏は、桑名がお父さんだということは知っていたようです。

ロックバンド・虹艶Bunnyでギターボーカルを務める露敏(ろびん)。
2006年には、舞台で役者デビューをし、翌年には演歌の女王などにも出演。
他にも多くの舞台などに出演し、2012年3月からはバンドの活動に専念することを決めたミュージシャンだ。

桑名には、アンルイスとの間に長男・美勇士、妻・栄子さんとの間に、次男・錬がいる。
そしてそれ以外にもうひとり息子がいた。
隠し子だ・・・。

桑名が亡くなった当日、露敏のバンドは都内でライブをしていた。
彼はフェイスブックでこのように綴っていた。
「何となく今日は天国とつながっていた。そんな感じ」
この日のライブが、天国へ旅立った桑名への鎮魂歌だったと思われる書き込み。

隠し子のことを栄子さんに訪ねると。
「え?何のことですか?露敏のことは小さい頃から知ってますが、桑名の友人の子と聞いてますけど・・・」と否定をした。

しかし、露敏家族と暮らす都内を訪ねると、祖母が困った表情を浮かべながらもこう答えてくれた。
「いろいろ問題が起こって迷惑をかけてはいけませんから、あの子は父親のことを口に出してこなかった。私たちは、あちらに迷惑がかかることは一切望んでなかったので、認知はしてもらってませんが、確かに桑名さんは露敏の父親ですよ」

露敏を訪ねると、
「桑名さんのご家族は、父子関係を知らないかもしれないので、迷惑をかけることになるから・・・」の一点張りだったが、桑名の名誉を守るため、誤解を生まないにためにと答えてくれた。
「桑名さんが父と教えられたのは小学校低学年の頃だったと思います。音楽をやっている著名な方とは聞いていたんですけど、まだ幼いこともありよくわかっていませんでした」
中学生くらいになると、テレビでみかける桑名を自分の父親と認識するようになっていったそうだ。

そしてこの頃、初めて桑名と会うことになる。
「母と一緒にライブに呼ばれたんです。でも、子供ながら何かを察したんでしょうね。お父さんと呼ぶことはできませんでした」
以降、彼は1年に1回ぐらいのペースで桑名と会うようになる。
誕生日にはプレゼントを貰ったり、お年玉も貰ったりしたそうです。

そんな露敏は、父と同じ芸能界へ進む。
長男・美勇士とも音楽を通じて親交を深めた。
「美勇士とは、話していても感覚的に気が合う感じですね。彼も、なんとなく僕らが兄弟ということは知っていたと思います」
2011年末、虹艶は、美勇士のプロデュースで年越しライブを成功させている。
そして、父と同じ音楽での道で生きることを決意し、初めてふたりでゆっくり話をしたいと思うようになったという。

しかし、桑名が倒れた・・・。
「1日だけでしたが、一晩中、病院で付き添いました。病室で父とふたりきりになる時間があったので、思わず手をギュッと握って、生まれて初めて親父と声をかけました。本当に死なないでと願いしましたね」
しかし、3ヶ月の闘病生活で力尽きる。

さらに彼は父の葬儀に行くことはなかった。
「本当は生きたかったです。葬儀の前の晩は眠れないほど悩みました。でも、今後は自分の力で生きていくという思いを込めて、あえて出席はしませんでした」
インタビューでは生んでくれて感謝しているようでした。

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