樹木希林のがん闘病を本木雅弘と娘・内田也哉子が支え最後は自宅で

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女優の樹木希林は1961年に文学座研究生に。1964年に俳優の岸田森と結婚するも1968年に離婚。1973年に歌手の内田裕也と再婚。1995年に娘の内田也哉子が俳優の本木雅弘と結婚。2013年に全身がんであることを告白。始まりは乳がんからで、一時は手術も成功し完治。数年後、転移していることが分かり再発。最先端医療の治療をしてきました。

樹木希林

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乳がんが次々と転移!婿・本木雅弘が支えた闘病生活

樹木希林は旦那・内田裕也が原因で多くの苦労をしてきました。そして、年には勝てないようでガンを発症し、手術をしても次々に転移をしていた。そのことから、樹木はいつ死んでもいいように遺書も書いていたという。今だ生きていられるのは婿である本木雅弘が闘病生活を支えていることにあったようです。

「あのマンションは本木さんが私の勧めで買ったものです。内田祐也が住む予定だったんですが、こんな立派なところはオレの性分に合わないといわれまして・・・」(樹木希林)
娘の内田也哉子と本木雅弘夫妻が所有するこのマンションにオセロ中島が住んでいたのだ。
半年間の家賃滞納で、家族一丸となった闘いに終止符が打たれた。
しかし、闘いはこれだけではなかった。

内田也哉子

樹木は現在、娘一家と二世帯同居中。
「とてもよく面倒を見てくれる」と、本木には実の息子のように信頼を寄せている。
2004年に乳がんの告知を受けた樹木。
本木は自分のことのように心配したという。
「当時、本木さんはガンをテーマにしたドラマの撮影をしていましたが、とても演じれないと降板することも考えていたほどです」(テレビ局関係者)
2009年には、映画おくりびとが日本アカデミー賞で10冠に輝いた。
司会を務めた樹木は冗談まじりに「うちには、おくりびとがいるので安心して去れます」と語っていた。

ふたりの間には約束があった。
「希林さんはから10年ほど前から遺書をしたためているのですが、乳がんになった際、最後は自宅で・・・と本木さんに伝えているんです」(知人)
そして、実は2009年頃には副賢と脊髄などへの移転が見つかっていたのだ。
そして2012年3月、どうなっていたのか?
「副賢と脊髄もそうだし、それ以外にも、いろんなところに転移しましたよ。今資料が手元にないから、どこに移転したかわからないけど、でもね治療は全部終わったんですよ」
本木の支えもあり、ガンを克服したそうです。
しかし、その後は検査などもしてないので再発しているかは不明だった。

樹木希林

最先端医療で乳がん完治!その治療方法とは

2012年に作家のなかにし礼を突如襲った食道がんは決して初期段階のものではなかったという。同年3月5日にテレビで告白した食道がんはそれほど深刻のなものだった。それから約半年経過し、なかにしさんが、がんは完全に消滅しましたと告白した。治療方法は、放射線治療の一種で、病巣を狙い撃ちして照謝できる先進医療の「陽子線治療」だった。この手術は切らずに消すので体へのダメージも少ないという。

この手術をなかにしさん以前に受けていた女性がいた。それが樹木希林だ。
2004年の夏に乳がんが発覚し、2005年1月に右乳房の全摘出手術を受けた。
それから2年ほどしてから、同じ場所でがんが再発。
全摘出後も一部残った乳腺にがんが発生したり、関連部位に転位することもあり、この場合も乳がんと呼ばれている。
樹木は、病院を転医。
そして、そこの病院で切らない放射線治療を受けたら、がんが消えたという。

樹木はこの放射線治療を受けた後、全摘出したことを後悔してるのか
「あれから何年もたった今考えてみると、やはり切らないでピンポイントの放射線治療が一番良かったと思う」と語っていた。
そして、友達で知り合いで乳がんになっている人がいたら、放射線治療をして、それがだめなら摘出手術をしましょうとアドバイスするのだという。
今では亡くなっているが、実際にジョー山中、筑紫哲也などを紹介したことがあるそうです。

樹木が治療を受けたのは鹿児島にあるUSAオンコロジーセンター。
2006年10月から診療を始めた比較的新しい病院。
2012年9月、3ヶ月に一度診察を受けていた。
再発したがんを治すまでの話を週刊誌が樹木に聞いた。
「治療は週に何回じゃなくて毎日で・・・。通うことはできないから、1ヶ月くらい滞在したんです」
そこで放射線治療の一種である陽子線治療をしたそうです。
この治療は照射なので血液のがんには対応できないそうです。

問題の治療費ですが。治療は完全予約制で土日関係なく毎日行うという。
治療期間は1週間から3ヶ月で治療時間は短くて5分、長くて小一時間。
健康保険適用外の自由診療なので、費用は200万円ほどかかるそうです。
基本的に抗がん剤は使わないが、放射線治療に有効と判断した場合は、1/10くらい使うこともあるという。
またここには入院施設がないため、ウィークリーマンションなどに滞在する必要があったので7000円/日がかかったそうです。

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全身がんで死の支度を託された本木雅弘

以前から乳がんの手術をし、ガンとの闘病生活をした樹木希林。放射線治療が効果を出していると思われていましたが・・・。日本アカデミー賞の授賞式の時に、全身にがんが転移していることを明かした樹木希林だった。

2013年3月8日、アカデミー賞の授賞式で、樹木はわが母の記で2度目の最優秀主演女優賞に輝いた。スピーチが始まって会場に和やかな笑いに包まれた。しかし、樹木は続けてこんな告白もした。
「2014年が大変。私は全身がんですから。2014年の仕事は、お約束できないんです。本当に」

樹木のがんとの闘いは2004年夏から始まる。まず乳がんが発覚。
2005年1月には右乳房の全摘出をした。
それから2年後の2007年頃、同じ場所でがんが再発。(転移だった)
しかし、樹木は今度は手術を拒否。放射線治療を選んだのだ。
そして、乳がんは無事に消えたとも報じられた。
しかし、その後に経緯について2012年9月、全身がんであることを明かす。

「がんができる体質になちゃったの。がんと付き合いたくないけど、出てくるものはしょうがないよね・・・。常にどこかにでてもおかしくないと思っているから、そんなに汗って医者行って調べないの。私の場合、日々の生活の仕方は、がんを受け入れてるという形だから」

60代になって気管支喘息、網膜剥離、そしてがん。
リアルに死というものに向かっていく自分を意識したことから、彼女の終活は始まった。

樹木希林

樹木はいずれくる死を受け入れるという考えになっていったそうです。
「樹木さんは死ぬときに、納得がいなかいと思いたくないから、今を大事に生きるようにもなったし、周囲も自分と真剣に向き合ってくれるようになったと嬉しそうに話していることがありました。樹木さんに言わせると、がんはありがたい病気で面白いんだそうです。いろんなよじれが見えてきて、人生が変わる。そういった意味で賜りものなんだって」(親しい映画関係者)

そんな樹木が死の支度を託しているのが娘婿の本木雅弘。
2001年に都内に構えた二世帯住宅の1階部分に樹木が、2階部分に本木が住んでいる。1階と2階はエレベーターのみでつながれており、お互いの空間を大切にした構造となっているという。

とある番組で樹木は本木とこんなやり取りをしている。

本木:樹木さんはどういうふうに死にたいですか? 家ですか?病院ですか?
樹木:できれば家で死なせてもらいたい。
樹木:わかりました。

映画関係者がいうには、樹木は本木に亡くなった後のことも一通り話ししてあるという。いくつか具体的にあげると、

・遺影は準備ずみ。映画・東京タワーのものを使う。
・現在、家の中もきれいにしているくらいなので、棺の中にはなるだけ物を入れないでほしい。
・葬儀に来て欲しい人も指定したい。
・死んだ後は、あんまり思い出してくれなくていい。自分のことは放っておいてくれていい。

すでに遺書も書き、6畳分ほどあった本も処分するなど死の準備をしている。
本木に全幅の信頼を寄せて、死の準備を進めているという。

その後、本木一家は英国・ロンドンに引っ越し移住。長男が米国留学中だった2010年に、妻の也哉子との間に次男が誕生した後、長女が留学することになり、家族は一緒に生活するべきと移住を決意したという。死ぬときは自宅で死にたいという姑・樹木と離れ、本木はその時を託した。

樹木希林

がんと認知症で終活を始める!物忘れがひどくて大変

樹木はさらに、認知症も始まり、終活の準備を始めたという。公の場で姿がみられるのも、何時までなのか・・・

「私全身ががんなんです。本当に・・・」
2013年3月、日本アカデミー賞の授賞式で衝撃の告白をした樹木希林。
最優秀主演女優賞に輝いた直後のスピーチは樹木希林らしいジョークかと思われたが、病状は深刻だった。

樹木に最初のがんが発覚したのは61歳の時の乳がんだった。翌年には右乳房の全摘出手術をしている。
「そこから皮膚に転移していたんですね。3ヵ所ぐらい・・・。そこを治療して2年ぐらいだったら、今度は腸、脊髄など5~6ヵ所に広がり、リンパ節や骨など13ヵ所の全身に転移しました」(樹木の知人)

全身がんになっても頑張って女優業をこなす樹木にさらなる試練が・・・。
「この1年、振り返る暇がなかったわね。認知症がでてきたので、どんどん記憶が変わっていくのよ・・・」と2013年11月の会見で話していた。

「樹木さんは出かける時は、必ず出ずカメを持ち歩いているんです。いつ、誰と会ったから忘れないためにと。娘婿の本木雅弘さんが贈ったそうです。ご家族には、死ぬのは病院より自宅がいいと話しているそうです」(樹木の知人)

樹木は全身がんと認知症の症状に、すでに覚悟の終活を始めている。
樹木の知人が話す。
「不用なものは捨て、再利用できる着物などは自分でミシンを使って縫う。そして、死んでも迷惑をかけないようにと、樹木さんは身の回りのものが残らないように心がけて生活しているんです」

しかし、樹木にはあと一つ必ずやり遂げなければいけない仕事がある。
日本アカデミー賞の女性司会者は、前年の最優秀主演女優が務めることになっているのだ。
そして2014年の晴れ舞台、第37回日本アカデミー賞で樹木は見事に司会を務めた。

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