小室哲哉は華原朋美と別れAsamiと結婚も離婚!KEIKOと再婚
ミュージシャンの小室哲哉は1984年に音楽ユニット「TM NETWORK」を結成しデビュー。1988年に元アイドルの大谷香奈子と結婚も1992年に離婚。1994年から篠原涼子、trf、華原朋美、安室奈美恵らに楽曲提供を始めヒット曲を連発し「小室サウンド」と呼ばれた。1995年に結成した音楽ユニット「globe」に自ら参加し、90年代の日本の音楽シーンの頂点に君臨。2001年5月に歌手のAsami(吉田麻美)と再婚し、子供をもうけるも2002年3月に離婚。同年11月にglobeのKEIKOと再々婚しています。
小室哲哉100億円破綻の金銭感覚
出迎えたリムジンに乗ると、都内の高級マンションの一室に案内された。
足を踏み入れると、スタイリッシュな部屋にはテレビや家電のほか、高級家具なども何もかもが揃っていた。
20歳だった彼女は感動のあまり声も出なかった。
当時人気絶頂の天才プロデューサーだった小室哲哉容疑者が、気に入った女性に、こんな億単位のプレゼントをするのは決して特別なことではなかった。
「貯金通帳だって途中から桁がわからなくなりましたから。10桁までしか表示されないんで・・・」
小室容疑者自身、そう語っていた彼の絶頂期の総資産は100億円を超えていた。
5億円の返済を求めて小室容疑者を訴えたAさんに対し、返済債務はないうえに精神的苦痛を負ったAさんを訴え返した小室容疑者の間で訴訟合戦に発展。
2年がかりの裁判の末、小室哲哉がAさんに5億円と損害延滞金1億円を含めた6億円を払うことで和解した。
総資産100億もあった男が5億の借金返済に滞り、詐欺容疑で逮捕されるという転落劇。
しかも小室哲哉は15億円を超える借金まで抱えていたという。
これほどの奈落に落ちる原因はいったい何だったのだろうか?
1993年に小室哲哉がプロデュースを手掛けたTRFがデビュー、1994年には初のミリオンを記録。
同じくプロデュースをした篠原涼子「恋しさとせつなさと心強さと」は200万枚を超えた。
1995年には恋人の華原朋美がデビューしミリオンヒット。
ダウンタウンの浜田と組んだユニットでも200万枚超え。
さらに安室奈美恵など、小室哲哉がプロデュースした7曲が100万枚を超えるヒットとなった。
そしてみずからも参加してglobeを結成した。
1996年ごろが小室哲哉の絶頂期で、高額税者番付全国4位で推定所得20億円。
続く1997年も高額税者番付全国4位で推定所得25億円。
「さらに会社をいくつも設立し、節税もしていたので実際はもっと収入はあったと思います。このころ、資産はゆうに100億を超えていたそうです。でも使う方も凄かったですね。ロサンゼルスに行くのに、渡航費は片道だけで2000万円かけたり、ファーストクラスを全席貸し切ったりなんてこともしていました。レストランも、他の客がいると嫌だから貸切にするんです。でも彼自身は決して食べ物に執着があるタイプではないんです。コンビニ弁当やファーストフードが続いても全然平気。自分の気分がよくなるためにお金を使うのが好きなんですよ。それ以外にも滞在するホテルの部屋を自宅と同じように変えてしまったりしていました」(音楽関係者)
米・ロサンゼルスの3億円豪邸、マリブの別荘、ハワイやバリにも別荘を購入した。
1億円以上するベンツやフェラーリを30台以上所有、海外にはプライベートジェトで出かけた。
「ラスベガスにカジノへ行ったときにはスタッフの軍資金も出したり、曲が売れるとアーティストに高級外車をポンとプレゼントしたり、とにかく桁の違う使い方でした」(音楽関係者)
小室哲哉は1988年にアイドルデュオ・キララとウララのキララこと大谷香奈子さんと結婚したものの、1992年に離婚。
その後、1995年に華原朋美との熱愛が伝えられた。
「もともと、女性をとっかえひっかえするタイプではなく、好きになると一直線。かわいくてヤセ型ではないアイドル系の女の子が好きなんです。初めて朋ちゃんの歌声を聞いて本当に感激して涙を流したというエピソードは有名です」(音楽関係者)
1998年1月に香港に音楽配信をする会社「ロジャム」を設立した。
当時はついに世界に進出と話題を呼んだ一大事業だった。
1999年1月、華原との破局が報じられた。
「破局したこのころから小室さん、少しづつ変わっていった気がします。本業の歌の方でも陰りが見え始めてきたんです」(芸能関係者)
確かに、その後は鈴木あみが話題を呼んだところを最後にヒット曲にも恵まれなくなる。
そのため楽曲以外のことも手掛けようとしたのだろう。
「2001年にはロジャムを香港の証券市場に上場しました。小室氏は80%を超える株を所有していましたが、上場直後に株が暴落、その1年で70億円以上の損失をだしたことから借金地獄がはじまったんです。その時に自分の音楽著作権を担保にして銀行から10億円を借りたそうです」(知人)
そんな矢先の2001年5月に小室哲哉がプロデュースしていた音楽ユニットDosのメンバーでタレントのASAMIとできちゃった婚をする。
しかし結婚10ヵ月で離婚し慰謝料はなんと10億円、養育費は月に200万円とも言われた。
「このときはすでに苦しい経済事情になっていたと思いますが、小室哲哉はすでにKEIKOに夢中だったみたいです。いくら払ってでもKEIKOと付き合いたい、と周囲も見えずに突っ走ってしまったんでしょうね」(知人)
離婚から8ヶ月後、小室哲哉はKEIKOと5億円の披露宴も行い結婚した。
しかし、人気は衰える一方だった。
2003年には夫婦揃ってのクリスマスディナーショーを行ったが、チケットも完売せず。
2004年の所得は1億5000万円で全盛期の15分の1にまで減った。。
そして2005年、小室哲哉にとって大きな痛手となる事が起きる。
前妻・吉田(ASAMI)から慰謝料と養育費が滞っているとされ、弁護士に曲の印税を差し押さえられたのだ。
「彼女が住んでいたのは賃貸だったので、小室からの家賃支払いが滞り、強制退去させられたんです。彼女にしてみれば、かつての仕打ちを対する憎悪もあったでしょうし、対抗策として、すぐ手を打ったということでしょう」(音楽関係者)
2008年1月には、globeのファンクラブが休止され、会費を返上する騒ぎもあった。
KEIKOはこの3月にソロ活動では事務所を移籍、KCOに改名して新しい活動をはじめようとしていた。
しかし小室哲哉の逮捕を受け、globeのCD発売は中止となっていた。
小室哲哉と元恋人達の苦悩
彼の元恋人と聞かれて真っ先に思い浮かぶのは、やはり、華原朋美だろう。
逮捕の当日、華原の母が経営する喫茶店前に、報道陣が20人ほど集まっていた。
「午前10時すぎに、帽子を深くかぶってペットのイヌを抱き、帰ってきましたが、報道陣に気づくとダッシュで家に入ってしまいました」(現場にいたテレビクルー)
小室容疑者と華原が破局してから9年・・・・、いきなり彼に捨てられた形になった華原は心身を壊し、療養と仕事復帰を繰り返している。
2007年6月、所属事務所を解雇された彼女は、2008年7月に都内のパーティに顔を出した。
その席で、「芸能界?年内には復帰したいですね」と話していたが、いまだに復帰の話は聞こえてこない。
「2008年6月には、自分とは全く関係ないのに、都内の結婚式場で、号泣している姿も目撃されています。
基本的には、仕事というほどの事はしていないようです。
最近は、朋ちゃんの弟さんが、彼女の仕事依頼の窓口になっているようですね。
朋ちゃんは2年ほど前から一緒に旅行に行く親しい男性がいるようです。
彼のBMWでデートをしているという話を聞いたこともありますしね。
ただ情緒不安定のためか、突然、音信不通になる事も多いようです」(華原の知人)
華原は2008年11月、実家近くのマンションで一人暮らしをしているようだが、この日は実家に入ったまま二度と姿を現すことはなかった。
小室容疑者の絶頂期に2年間密着取材し、『小室哲哉深層の美意識』を書いたノンフィクションライター・神山典士はこう語る。
「当時小室さんは『不安定だからこそ、アーティストだ』と言っていたんです。
だから女性に対しても不安定さ、もろさを求めてしまったところがあるかもしれない。
安定していると、いいものは作れないと常に思っている感じだったから」
その不安定さの代表格が華原朋美といっていいだろう。
神山氏の著書には、小室容疑者の人格形成に大きな影響を与えた女性として従姉の晴実ちゃんが登場する。
小室容疑者より1歳年上の晴実さんは、一人っ子の小室にとっては姉のような存在で、彼にロックを教え、彼の才能を信じてくれた。
しかし彼女は、容疑者が23歳の時に自殺。彼女の死をきっかけに、彼は本気でプロのミュージシャンを目指すようになったという。
危うい女性を好む原点は、晴実さんにあるのだろうか。
最初の結婚は1988年。相手はアイドルユニット『キララとウララ』のキララこと大谷香菜子さんだったが、4年で破局した。
その後彼女は再婚し、ペットビジネスの実業家として活躍している。
ビジネスを始めるきっかけであり、そしてグッズのモチーフにもなっているユンカースは容疑者との結婚時代に飼い始めた愛犬だったという。
大谷さんとの離婚の直後に交際が発覚したのはモデルのM子さんである。
彼女は所属事務所をやめ、結婚準備に入ったが、その矢先、小室容疑者と華原との熱愛が華々しく報道されるようになった。
M子さんの実家を訪ねてみると、母親が苦笑い交じりにこう話してくれた。
「確かにあの頃娘は小室さんと一緒に住んでいました。うちにも来たし、私も会いましたよ。
そして、一緒にアメリカへ行くという事でしたから、2人の間で何かけじめをつけるんだなと思いましたが、結局、結婚式は挙げませんでした」
アメリカ旅行から戻った後「別れた」と、告げられたという。
その後、彼女は結婚。すでに小学生の子供も居るそうだ。
華原と別れた小室は2001年、Kiss Destinationのパートナーだった吉田麻美と出来ちゃった結婚。
1児をもうけたこの結婚も、1年ともたなかった。
離婚時には、7億円の慰謝料が支払われたと話題になった。
2年前に彼女を取材した芸能レポーターは、こう振り返る。
「当時、一人娘は4歳でしたが、その1年前から養育費が完全に滞っていると、僕の目の前で大泣きしながら訴えていました。
結局、家賃も払えなくなり、娘さんと住んでいたマンションを出ざるをえなくなったんです」
このときすでに、小室の斜陽は始まっていたようだ。
今回、再び7億円の慰謝料の件が蒸し返され、小室の印税が吉田さん側に差し押さえられたという報道もあった。
喫茶店を経営する麻美の母親が週刊誌に明かしてくれた。
「慰謝料は、あちらからの申し出で、あくまで養育費という形で月々頂くという事でした。
そんな額(7億)だなんて、とんでもありません。もっともっと少ないです。
交際中から挨拶にみえたし、結婚後は私とも仲良くやっていました。
経済的に何かあったというのは、離婚後の事だと思います。
養育費が滞っていたのは事実ですし、その件では弁護士さんと相談して話を進めていたところです。
娘は相当ショックを受けているようですから、そっとしておいてあげてください」
KEIKOとの結婚は、麻美と離婚した8ヶ月後だった。
かつて不安定を求めていた彼が、数々の女性遍歴を経て、最後にたどり着いたのは、逮捕劇にも動じないKEIKOという安定だったのか。
逮捕翌日、小室容疑者の実家へ行ってみた。実母は週刊誌の取材に車の窓を少し開け、恐縮しながら答えてくれた。
「すみません。皆様には本当にご迷惑とご心配をおかけしております。
いまだ本人と連絡がとれず、全く何も分からない状態なんです。
最近は息子からいっさい連絡はありませんでした。
母親として私も、心配しておりますが、その前に、ご迷惑をおかけした方々に、息子がどうお詫びと償いをしていけばいいのか・・・・」
天国と地獄を味わったのは、華原朋美だけではなかった。
小室容疑者と関わった女性たちの苦悩は当分続きそうだ。
KEIKOに内緒!小室哲哉に新しい愛人がいた
なんとKEIKOにも知らせてない怪しい女性を小室哲哉は囲っていた!
小室哲哉被告が所属する音楽事務所イーミュージックのホームページのトップに、ひとりの歌姫が紹介されている。
名前は河村柚花(ゆか)、20代半ば小室のお墨付きだった。
「小室さんの勧めもあって、2008年1月に事務所に所属したんです。元ジュディマリのYUKI似の歌声で、歌唱力もかなりのようです」(音楽関係者)
河村は名古屋出身で、中学時代からボイストレーニングを受け、高校時代にハンド活動を、そして2008年はソロ活躍していた。
以前は川村由佳という名前で活動していたが、最近改名した。
「初めて彼女に会った時は、驚きました。しぐさや、顔の表情、雰囲気が華原朋美そっくりなんです。そんな彼女に小室さんが興味をもったので、周囲はやっぱりな、という感じもありました。KEIKOさんには内緒でふたりで食事に行く姿もなんどもありましたし、プロデュースの話もしていたようです。小室さんが女性アーティストにここまで目をかけるってことは・・・」(音楽関係者)
小室は、華原朋美、元妻の吉田麻美との別れを経て、2002年にKEIKOと結婚。
その後、新たな女性との噂はなかっただけに彼女との関係はきになるところ。
しかし、河村のスケジュールは2008年11月17日のライブを最後に何もない。
さらに小室の事務所を辞めるという。
その河村に話を聞いた。
身長160CM、金髪ロンゲにニット、ミニスカートにブーツ姿の彼女は確かに朋ちゃん似。
小室との交際について話を聞くと、首を振りながら「何もお答する立場にないんです」
それでもポツリポツリ重い口を開き、小室との出会いから語りはじめた。
「2008年1月にイーミュージックのパーティーで初めて小室さんに会いました。テレビで見たまんまの素敵でやさしそうな印象でした」
2月に契約を結び、給料は10万円だったという。
小室とはよく会っていた?
「仕事としてはそんなにすごくいっぱいはないです」
待ち合わせ場所に現れる小室は、いつもひとり。
自ら車のハンドルを握って現れ、港区の個室のあるレストランで逢うことが多かったという。
記者:河村さんに対して、何といってた?
川村:私の高音とか、曲とか・・・気に入ってるって
記者:KEIKOと会ったことは?
川村:ないです
記者:小室にプロデュースしてもらうはずだった?
川村:具体的にではなくて・・・、その時期はglobeが再結成するとかいろんな話があったので、外部のプロデューサーをたてたりして、私も活動をしていたので。そんなにしっかり決まってた感じじゃないです。
記者:小室に朋ちゃんに似てるといわれたことは?
川村:いわれたことはあります。う~んという感じはありました。
2008年9月を最後に小室との連絡は途絶えたという。
10万円と決められていた給料も10月分・11月分は未払いとなっており、河村はすでに事務所を辞める意思を伝えているという。
小室哲哉とKEIKOが引っ越し!知人の家で居候
「すでに引っ越しました。事務所として使ったいた下の階の荷物も運び出され、関係者の方々も、もうここにはいません」(マンション住人)
小室哲哉とKEIKO夫妻が結婚直後から住んでいた都内のマンションを2008年12月初旬に引き払っていた。
最上階にあった夫妻の部屋は家賃210万円。
下の階の事務所と合計で月に250万円の経費だったという。
債権者から差し押さえられた通帳の残高はわずか6千259円だったというから、解約の当然だろう。
「曲作りに使用していたコンピュータ機器、KEIKOさんのたくさんあった服やアクセサリーなどの荷物はトランクルームに移したようです」(小室の知人)
著作権譲渡をめぐる詐欺容疑で逮捕された小室は2008年11月21日に保釈され、1ヶ月がたった。2人はいまどこに?
「新しい部屋を探したいますが、小室の名を出すとなかなか貸してもらえないようで・・・・。
それでいまは、都内の知人宅に夫婦で身を寄せています」(前出の知人)
そこは2世帯住宅の一戸建てで、知人夫妻と子供など3世代が暮らしているという。
「小室さんは、KEIKOさんがそばにいてくれることに感謝しているそうです。
『もし1人だけだったら精神的に耐えられなかっただろう』って。
また、家族的な雰囲気の中にいられることも夫妻の救いになっているそうです。
知人の幼稚園に通うお子さんと無邪気に遊ぶ時間が一番楽しいとも言っています」(別の知人)
2人は2008年12月初め、神社に現れたところを一部で報じられ、その際、小室は「今までのことを振り返り、どうしてこうなってしまったのか書き綴っている」と話していた。
知人宅に居候しつつ、反省ノートをしたためる日々のようだ。
妻・KEIKOは、「好き嫌いが激しい小室のために包丁を握る時間も増えたとか。
KEIKOが好きな『篤姫』のDVDを一緒に見て、夫婦の会話が増えたそうです」(前出の知人)
正月は、知人の軽井沢の別荘で過ごすプランもあるが、「出来れば年内に新居に引っ越し、夫婦で新生活を始めたい希望があるようです」
2009年1月21日には初公判が大阪地裁で開かれる。
彼女が夫を支える日々は2009年も続く。
ようやくglobeが完全復活?!
2008年にglobe復活を発表したけど、小室哲哉の5億円詐欺事件の影響で全く活動が休止状態でしたが、復活を思わせるような、グラブでのパーティーが2009年6月に報じられました。
「イェ~イなんてハシャいで、大声をあげていたので、KEIKOだと気づきました。お酒もジャンジャン注文して、そうとう酔ってましたね。でも、一緒にいた小室はおとなしくしてましたけど(苦笑い)」(居合わせた客)
小室哲哉と妻のKEIKOが目撃されたのは、2009年6月12日の深夜。
場所は六本木のクラブ。
小室と言えば、懲役3年、執行猶予5年の有罪判決が2009年5月25日に確定したばかり。
エイベックスの松浦勝人社長に被害額6億4800万円を肩代わりしてもらい、放蕩の限りを尽くして湯水のように金を使ってきた生活を、夫婦そろって改めることで、実刑は免れた。
報道陣を前に、「音楽は私の天職。何が何でも再起しなければと思う」と、涙ながらに語った小室。
2009年、ピアノに触れられるありがたみを噛みしめながら、作曲活動に専念しているように思われていたが・・・・。
「KEIKOは、小室の初公判の直後である2009年3月中旬にもサパークラブで目撃されました。小室の再起を誓うため、マークパンサーの妻らと乾杯して盛り上がったそうです」(ワイドショースタッフ)
ホストクラブほど派手な接客はないものの、店の男性スタッフらによるショーやフレンドリーな接客を楽しむのがサパークラブだ。
ただ、この日に夫妻が訪れた店は、ボトルを1本空けて、1時間もいれば、2人で3万円はかかる。
「確かに以前は、夫妻で六本木界隈のサパークラブによく顔を出していました。KEIKOさんは、テキーラやシャンパンを次々と空けて、そのままカラオケに行くのが定番。その頃と比べれば、抑えているつもりなんでしょうけど・・・・」(音楽業界関係者)
結局、この夜は1時間ほどで店を後にしたという小室とKEIKO。「どうやらお世話になっている知人と打ち合わせをした後に、食事をかねて数人でサパークラブに足を運んだようです」(芸能プロ関係者)
計画されているというglobe復活に向けてスタジオにこもり、曲作りに没頭する小室を傍らで見ていたKEIKOが、気分転換も兼ねて連れ出したと言うことか。
「まぁ、お会計はどうしたかはわかりませんが(苦笑い)。ただ、こうやって次第に夫婦の放蕩癖が戻ってしまわないか、少し心配ですけど」(前出・音楽業界関係者)
globe復活も音楽活動は軌道に乗らず苦戦
借金問題も片付いて、活動を復活させたglobeで新しい出発を期待されていたのですが2009年、すっかり仕事も無くなり、また活動をする場もなくなっているようです。借金は肩代わりしてもらったのに、返済が出来ない状態に陥っているようです。
「判決後で夫婦で共演したのは2009年8月の(a-nation)ぐらい。音楽活動は思うようにいかず、今後のことも未定で、ふたりはいまだに不安定な状態です」(音楽関係者)
小室哲哉の有罪判決から7ヶ月。
妻・KEIKOは、夫と二人三脚での再起を誓ったが、それは、いばらの道でもあった。
先日、ふたりはある音楽関係者に協力を求めていたという。
「KEIKOさんは泣きながら、もう一度、あのころのように戻りたい。復活したい!といっていたそうです。小室さんも泣いていて、彼女に協力を惜しまないといういい方はよくない。だって、僕が巻き込んだんだから・・・と、妻に対し罪の意識を感じていたみたいですね。KEIKOさんは別れることもできたんでしょうが、ずっと小室さんを支え続けましたからね。小室さんは、彼女をまた元の人気アーティストに戻してあげたいと思っているのでしょう」(音楽関係者)
小室の借金約5億円を肩代わりしたエイベックスには、50曲を作曲し、返済することになっている。
「今は、その曲作りに取り組んでいますが、今後は小室さんが作曲し、KEIKOさんが歌うという形で連携をとっていくそうです。KEIKOさんもボイストレーニングを再開したと聞いています。曲が売れるか、ファンが戻ってくるかは正直、未知数。でも、絶頂期と比べ、最近ふたりは驚くくらい人間が丸くなった、ひたむきな気持ちでもう一度やり直せば復活も・・・」(音楽関係者)
小室ファミリーは2010年からふたりからの再出発となる。
globe復活話も終わったようですね・・・。
9回目の結婚記念日は病室!小室がKEIKOにフェラガモをプレゼント
くも膜下出血で緊急手術をし集中治療室に移されていたKEIKO。まだ話したりすることはできない状態だというとこまで報じられていました。いまでは徐々に回復に向かっているようです。残念ながら9回目の結婚記念日は病室だったようですが・・・。
2011年11月22日、小室哲哉が病院へと駆け込んでいった。
2011年10月24日にくも膜下出血で倒れた妻・KEIKOが入院している病院だ。
「5時間に及ぶ手術の後、EICUで治療を受け、2011年11月9日には一般病棟に移れるほど回復している。EICUでは肉親しか面会できなかったけど、今ではある程度自由に面会できるようになりました。早朝に小室さんが1階のカフェでコーヒーを飲んでたりすることもありますよ。面会を1日も欠かさずに来てるようです」(音楽関係者)
小室と並んで病院内へ入っていったスタッフが肩から下げていたのは、フェラガモのロゴが入った大きな紙袋。
どうやらその日は、9回目の結婚記念日だったようだ。
「1週間前の午前、開店したばかりの六本木ヒルズに帽子を目深にかぶった小室さんの姿を見ましたよ。DIESEL店内でみましたが、近くにはフェラガモの店もあります」(目撃者)
小室はKEIKOのためにプレゼントを買いに来ていたようだ。
冒頭に戻り、その日は小室の知人やスタッフが続々とやってきた。
KEIKOも長時間面会できるほどまでに回復していることがわかる。
「当初、入院は1ヶ月必要とされてましたが、退院まであと数週間かかると思われます」(病院関係者)
小室が病院を出たのは深夜1時過ぎ、9時間以上もいたことになる。
病室での結婚記念日だったふたりだけど、大事なものを思い出したのかも知れない。
小室哲哉が単独復活!GUMMYと一夜限りのコラボ
KEIKOがくも膜下出血で倒れ、歌手としての復帰は未定に。そして、KEIKOの特徴でもあった、高音をだすとまたくも膜下出血を引き起こしかねない原因になるかも知れないため、歌手としての復帰は絶望的の中、小室哲哉はひとりで立ち上がったようです。何度もglobeの復活宣言をし、何度も復活に失敗してきましたが、今度は小室ひとりでの活動再開?
会場にはサエコ、安めぐみ、エビちゃん、熊田曜子など多数の有名人の姿があった。
BIGBANGが所属する、YGエンターテイメントの創立15周年を記念したコンサートが埼玉スーパーアリーナで2012年1月21.22日にあった。
オープニングは2NEIが飾り、次にBIGBANGが登場。
2011年、大麻使用が発覚したG-DRAGONも登場した。
日韓で約20万人を動員した今回のコンサートのグランドフィナーレでは、韓国バラード界のGUMMYがglobeのDEPARTURESをカバーし、小室哲哉がサプライズで登場した。
小室がピアノ演奏をし、GUMMYが歌い上げると大歓声に包まれた。
小室哲哉がC型肝炎で闘病中だった
妻・KEIKOがくも膜下出血で倒れた時期に小室哲哉自身も検査をしたらC型肝炎を患っていたことがわかったそうです。KEIKOを支えながら、自身も闘病生活を強いられることに・・・。
楽曲制作とKEIKOの介護に明け暮れるなか、新たな悲劇が小室を襲った。
人生の崖っぷちに立つ54歳は、言葉を選びながら語ってくれた。
2011年10月に妻・KEIKOがくも膜下出血で倒れた後、追い打ちをかけるかのように自分の身体が病魔に冒されていることを知る。
「C型肝炎だとわかったのは、妻のおかげかも知れません。彼女が倒れたあの日をきっかけに、僕も血液検査や尿検査を受けるようになり、2012年9月、肝機能の数値の異常に気づいたのです。肝臓の病気は自覚症状がありません。痛くも痒くもない。10月末に専門の医師に診断してもらったところ、C型肝炎とわかりました将来的に肝硬変や肝がんに進む可能性もあるので、すぐに治療したほうがいいと言われました」
「自分達の世代は、子供の頃、予防接種で針を使い回した可能性も考えられるということでした。しかし、C型肝炎に感染理由はわかりませんでした。ただ、父に病気にかかったことを伝えると、父も若い頃に肝炎にかかったことがあると話していました。そのまま放っておくこともできましたが、父のアドバイスもあり治療することにしました」
C型肝炎の治療として一般的なのが、肝臓からウイルスを排除するためのインターフェロンを週に1度注射し、飲み薬を朝晩服用するものだ。
副作用は、発熱、嘔吐、食欲不振、鬱などがある。
「2012年11月からインターフェロン治療を24週間続けることになりました。治療を始めた当初は、高熱になり身体にはジンマシンがでました。ただ僕はそれに耐えることができた。それはKEIKOの苦しみをみていたからです」
「比較するものではありませんが、KEIKOの病気は、逮捕された時よりはるかに大きな衝撃でした。思えば死というものを真剣に考えました。90年代にミリオンを量産していた頃、僕は生きている実感もなく死への恐怖やみじんもなかった。それどころか死んだら伝説になるとさえ思っていました。そんな僕が真剣に生きることを見つめ直すようになったのはKEIKOとの生活です。彼女の病気をきっかけに生を強く意識するようになった。だからKEIKOは命の恩人です」
2013年2月、KEIKOの状況についても話してくれた。
「今は治療の折り返し地点を過ぎたところ。幸いなことに順調に回復しています。ウイルスが完全に消えたわけではありませんが、先生にも大丈夫でしょうとお墨つきをいただきました」
KEIKOは熊本の実家にも行ったりしているそうで元気なようです。
目標は、C型肝炎の治療を終えてからは、ふたりでまたステージに立てるように頑張っているとのこと。
小室哲哉は大学の授業料を音楽機材に使い除籍に!父親と確執
小室哲哉は大学の授業料を音楽機材に使い除籍になり、それが原因で父親と10年も不仲になったそうです。その後、小室は音楽で大成功をし、父親も認め確執も解消したそうです。
2014年3月29日に小室哲哉の父・修一さんの葬儀が行われた。
2013年夏に骨髄性白血病と診断されて以来、闘病生活を続けてきたが24日に肺炎を発症し容体が悪化し、26日に亡くなった。
小室は次のようにコメントをした。
「骨髄性白血病と診断されてから9ヶ月もよく頑張ってくれました。30年前は最も音楽を認めてくれなかった父が、最もTKのファンになってくれました」
修一さんは小室が音楽の道に進むことを反対していたのだ。
修一さんが次のような理由で音楽を反対していたそうだ。
「戦前生まれで、音楽は不良の遊びだと思っていた修一さんは、聴くだけならいいけどやるもんじゃないという考え。小室さんの母が医師の家系だったこともあり、自分の教育のせいで、息子が音楽の道に進んでしまったらどうしようと思っていたようです」(小室家知人)
小室は母の影響で3歳でバイオリンをしているが、修一さんが猛反対をしたのでやめている。
しかし、小室の音楽への思いは消えなかった。
小学校6年の時に連れて行かれた大阪万博で、富田勲のシンセサイザーの演奏を聴いて衝撃を受ける。
電子音楽に興味を持った小室は、中学3年になると家にあったエレクトーンなどを勝手に売り、そのお金でシンセサイザーを購入する。
高校に進学した小室は音楽にのめり込むようになる。
勉強もせず遅刻を繰り返し、友達と部屋にこもって楽器をいじる。
父との関係が悪化し、この頃からほとんど会話をすることがなくなる。
大学進学後はさらに音楽にのめり込む。
「機材を買うために大学の授業料を使い込み除籍になりました。それで父との関係もさらに悪くなったそうです」(音楽関係者)
しかし、小室の音楽の才能が開花していく。
1984年にTM NETWORKとしてデビューすると、すぐに人気グループになった。
ザ・ベストテンなどのテレビ番組に出演するようになるが父とはまだ疎遠だった。
しかし、修一さんは音楽で輝きを放つ子供をすでに認めていたそうだ。
小室の中学の同級生が話す。
「デビュー直後、偶然お父さんに会ったときに、すごいですねって声をかけたんです。そうしたら笑顔で、応援してやってくれよって」
高校から10年以上も小室と修一さんは会話がなかったのだが、1988年にNHK紅白に出場を決めたことで関係が改善される。
「修一さんから、おまえ音楽で食べていけるんだな。すごいじゃないかと連絡が入ったそうです。それが初めて音楽でほめられたことだったそうですよ」(小室家知人)
そして、修一さんは妻と一緒に小室のコンサートにも足を運ぶようになり、TM NETWORKの解散コンサートにも姿があった。
この時、すでに父・修一さんは小室を自慢の息子となっていたそうです。