大原麗子は渡瀬恒彦に森進一と結婚も離婚!高倉健への告白

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女優の大原麗子は1964年にNHKドラマ「幸福試験」でデビュー。高倉健の「網走番外地」や「男はつらいよ」のシリーズに出演。1977年にテレビCMの「すこし愛して、なが~く愛して」のキャッチコピーで人気に。1973年に俳優の渡瀬恒彦、1980年に歌手の森進一と結婚したが、ともに離婚。1975年に手足に力の入らなくなる神経障害「ギラン・バレー症候群」を発症。1999年11月に再発し芸能活動を休止。2009年8月に62歳で死去されています。

大原麗子

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大原麗子が最後に残したラブレター!愛した男達に残した日記

2011年8月3日、大原麗子さんが亡くなってから2年が経過していた。
弟の政光氏が監修した大原麗子炎のようにが出版された。
「姉は生前、手記のようなものを書いていました。8歳で父と別居したことや苦労した母に支えられ女優を目指した青春時代などが書かれていました。そこからわかったのは、姉には自分の生涯を作品にしていという思いがあったようです」 

死亡当時は孤独死と報じられた。彼女の人生には愛した男達との別れがあった。

1973年、渡瀬恒彦と結婚、わずか4年で離婚している。
「姉は別れてからもずっと渡瀬さんのことが好きでした。実は結婚前に、姉は渡瀬さんとの子供を妊娠したことがありました。子宮外妊娠でした。ふたつの卵巣のうちひとつがなくなるのですから、とてもショックだったと思います。病院に運ばれたときには卵管は破裂寸前で緊急手術をすることになりました。姉と同じAB型だった渡瀬さんの血を輸血しました。その時、渡瀬さんの血が流れてて嬉しいといってましたね」 

大原さんの最後のテレビドラマ出演は、渡瀬との共演作だった。
「離婚後は、姉は一度だけ渡瀬さんの家の近くを通るだけでもいいから行きたいといったことがありました。でも渡瀬さんには新しい家族がいて迷惑がかかるので止めたことがありました」

亡くなってから発見された日記には、恋愛に生き続けた大原麗子の話が綴られていたようです。

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大原麗子が最後のラブレター高倉健への告白

1980年には、森進一と2度目の結婚、しかし1984年に離婚した。
「実はふたりを別れさせたのは僕でした・・・。姉は森さんとの子供を中絶したことがあったんです。妊娠した時、姉は事実を隠したまま堕ろすことを決断しました。子供より仕事を優先したいという理由でしたが、それは森さんが望む家庭的な主婦になれないということを意味していました。僕は森さんに姉のことを打ち明け、姉と離婚して新しい子供を作ってほしいと勧めました」(実弟)

「森さんは1年ほど悩んだ末に、自分から別れるとはいわずに、姉に嫌われるように仕向けたんです。森さんは辛かったと思います。姉は最後までこのことは知りません。森さんは姉が亡くなって二日後に妹と一緒に、姉のお骨に手を合わせてくださいました。最後まで姉のことを気にかけていてくれました」

2度目の離婚をした後は、豪邸でひとりで暮らしていた。
その寂しさからか、昼夜を問わず毎日誰かに長電話をかけていたという。
そんな大原はある男性への思いがあった。
「映画・網走番外地シリーズで共演した高倉健さんでした。姉はずっと尊敬の念を持っていました。映画・居酒屋兆治では、兆治に恋心を抱く役どころでしたが、姉はまさに高倉さんに同じ思いを抱いてました。女性として恋焦がれていたのだと思います。2009年の11月には、高倉さんがひとりで姉のお墓に来て30分ほど話し込んでいました。遺品の中には高倉健の記事だけをまとめたスクラップブックもありました。そこには、大好き、尊敬していますと書かれていました」

姉が亡くなったときにあった寝室のDVDには、高倉さんと共演したドラマ・チロルの挽歌が入っていたそうです。なんとも切ない恋心。

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