浅田真央は病気と闘った母の死を乗り越え父のサポートで復活
女子フィギュアスケート選手の浅田真央は5歳からフィギュアスケートをスタート。2005年の世界ジュニア優勝。2006年の世界ジュニア選手権で3回転半に成功し、2008年のグランプリファイナルではフリーで史上初めて2度の3回転半を成功。2010年のバンクーバー五輪では銀メダルを獲得。2010年の世界選手権優勝。
病気と闘う母のために変化をしてのロシア杯優勝
2011年11月、ロシア杯で優勝し久しぶりにGP出場を決めた浅田真央。得意のトリプルアクセルを封印してしまったことも話題になっていましたが、意識の変化があったという。
ロシア杯で優勝をし、3年ぶりにグランプリファイナル出場を決めた浅田真央。
2011年~2012シーズンにかける思いは周囲も驚くほど変化が見られているというのだ。
ひとつは、彼女の代名詞だったトリプルアクセルだ。
これにこだわらなくなったとのこと。
「2011年~2012シーズン、真央ちゃんは佐藤コーチと相談し、自分自身で納得して飛ばないようになったんです」(フィギア関係者)
結果、ミスが少ない演技は高得点に繋がった。
キム・ヨナから学ぼうとする姿勢もこれまではありえなかった。
「一緒に佐藤コーチの指導を受けている小塚崇彦は、キム・ヨナを金メダルに導いた振付師に今季の振付をしてもらっています。そんな小塚から、真央ちゃんは表現力の秘密を盗みとるためか、熱心に話し込んでいます。昨年まではキム・ヨナの演技に興味を示すことすらありませんでしたね」(別の関係者)
浅田が2011年~2012シーズン、ここまで意気込むには理由があった。
「この春先から、母の体調が思わしくない。内蔵系の疾患だそうです。顔色もあまりよくありませんでした」(同上)
母の病は浅田の私生活も変えるきっかけになった。
「真央ちゃんは中京大の近くで一人暮らしを始め、食事も自炊し、マイカーを自ら運転して大学に通うようになりました。彼女の自立は、母に負担をかけたくないという現れでしょう」(別のフィギア関係者)
こだわりを捨てた2011年~2012シーズンの演技と、自立した強さが優勝をとった背景にあったようです。
浅田真央の母がら生体肝移植を拒否!闘病生活1年の真実
2011年12月、浅田真央の母・匡子さんが闘病の末、48歳で亡くなりました。浅田真央はGPファイナル欠場してまで帰国をしましたが間に合わず・・・。肝硬変という重い病気のために亡くなったようです。母は自分が死ぬのを悟っていたみたいで真央には、将来へのアドバイスをたくさんしていたそうです。
匡子の母は、自身が20歳の時に亡くし、父は自身が12歳の時に亡くしとても大変な人生だったみたいです。そのため、夜の仕事などをして家系を助けていた背景があるようです。肝臓を悪くしたのは、夜の仕事でお酒を飲み過ぎたためとも噂されていましたが、とても大変な人生だったようです。
「匡子(きょうこ)さんは、亡くなる直前に病床からふたりの娘たちへ、あなたたち姉妹にはふたりで生きていけるレールは敷きました。私はいつ亡くなっても大丈夫と話していたそうです。お母さんはGPファイナルで金メダルをとることをテレビ観戦でみようと楽しみにしていたのですが・・・」(スケート関係者)
浅田は母の危篤という知らせを聞いて、急遽カナダ・ケベックから帰国した。
母の死を覚悟していたのだろうか?
浅田は報道陣にも冷静に対応をしていた。
いつも真央が練習するリンクサイドに姿を見せていた匡子さん。
「春くらいからみかけないねってファンの間でも噂になっていたんです」(スポーツ紙記者)
2011年の春、匡子さんは手術を受けていたようです。
「彼女が受けたのは、肝臓の切除・移植手術。肝硬変で、移植が必要なほど重い肝臓病にかかっていたんです。移植の手術をしたんですが、うまくいかず、術後の経過も悪かったそうです。母をみかけた人によると、顔は土気色でおうたんが出ていたそうです」(別のスケート関係者)
生体肝移植は、血のつながりのある身内から肝臓を提供してもらう例が多い。
「本来なら舞ちゃんか真央ちゃんからもらうのが一番よかったのですが、お母さんは、大事な娘から、まして五輪を目指して頑張ってる真央からもうなんて母親としてできないと断ったそうです」(フィギュア関係者)
匡子さん自身も、実の父を12歳の時、母を20歳の時に亡くしている。
21歳で母を亡くすことになった浅田も、どうすれば母が喜んでくれるのか知っていた。
「匡子さんがロッカールームで、レッスン代など悩んでるときも、真央ちゃんは励ましていました。私スケート頑張るからねって言うと、すぐに匡子さんの顔に光が差し込むことを幼い真央ちゃんは理解していました。母も周囲に何度もあの子に助けられたと話していたようです」(スケート関係者)
そんななかで真央は自立し自炊して激やせと報道されたことがあった。
「それは匡子さんの体調が悪く、姉妹で家事をしなくてはいけなくなったからなんです。痩せてしまったのはお母さんの病気で心労となっていたようです」(別のフィギュア関係者)
「突然のお母さんとの別れに、真央ちゃんもショックを受けていると想います。でも、ソチ五輪で金メダルを取るまで泣いちゃダメという、母が残した別れの言葉を胸にしまってるんでしょうね」(浅田家の知人)
母との約束を守るために浅田選手は、早くも次の大会への出場を表明してた。
全日本選手権に優勝できたのは父・敏治氏の支えがあったから
2011年12月、母・匡子さんが亡くなりましたが、浅田真央は全日本選手権では、見事に優勝を果たしました。しかし、プロではないのでフィギュアスケートでコーチを頼んだりするのにかなりのお金がかかるようです。これまでは母が支えてきましたが、今後は母に代わって水商売経営者である父が真央を支えるという。
最愛の母・匡子さんを無くして1週間が経った。
在学中の中京大学から近い真央のマンションには、生前、匡子さんが真央の送り迎えに使っていた白いワゴンが止められていた。
「あの車はいまはお父さんが運転しているんですよ。真央ちゃんは実家で葬儀を済ませてからすぐにこっちのマンションに帰ってきて、大学で練習をしています。練習に集中できるように父が送り迎えをしているようです」(近所の住民)
2011年12月23日の全日本選手権に向けてサポートしているのは、これまで表に出てこなかった父。敏治さんだった。
若くして両親を失い、夢を諦めなくてはならなかった匡子さん。
自分の娘たちには好きなことをやらせてあげたい。
そんな思いを理解していたのは父・敏治さんだった。
「敏治さんも小学生の頃にお父さんを亡くして随分苦労したんです。真央ちゃんにつきっきりだった匡子さんに代わって敏治さんは家事を全部引き受けていました。そうして奥さんと娘さんを支えてきたんですよ」(浅田家の知人)
五輪出業選手を狙うフィギュアスケーターの場合、年間3000万円もかかるといわれている。
敏治さんは事業を立ち上げ、その多くを真央の活動ににあててきた。
妻の闘病生活も支えてきた敏治さん。
ほとんど睡眠時間もなく、10キロも激やせしてしまった。
敏治さんは、亡き妻の遺志を受け継ぎ真央のスケートを全力でサポートしているのだ。
金銭的に父がずっとサポートしてきたようです。
これからは母に代わって表でもサポートするようです。
浅田真央が母の死を乗り越えて完全復活
2011年12月、母・匡子さんの死去に、カナダ・ケベックで開催されていたグランプリファイナルを出場予定だったのを急遽欠場し帰国しましたが間に合わず。全日本選手権では、相手の失敗もあり見事に幸運を掴んでの優勝をしました。しかし、母の死のショックは相当大きかったようで、その後も落ち込んでいましたが、それから1年が経ち、ようやく完全に復活することができたという。
2012年11月、GPシリーズ第三戦の中国杯で見事優勝をした浅田真央。
尖閣諸島による反日ムードが高まる中で、大会出場を懸念する向きもあったが、浅田は自然体で乗り切った。
浅田は2011年12月、母を亡くした。
浅田の折れない心の強さには、15歳まで指導した恩師・山田満知子コーチも驚嘆(きょうたん)していた。
「中国杯の直前、山田コーチは現在指導している村上佳菜子と比較し、真央ちゃんの成長ぶりに驚いていましたよ。最近の真央はストイック。練習は無遅刻無欠席だし、ちやほやされても天狗にならない。オンとオフをきっちり使い分けてている」(フィギュア関係者)
精神が強い真央だが、やはり失意の底から立ち直るには時間がかかったという。
2012年春の世界選手権を終えた4月2日以降、2週間リンクにまったく上がらない日が続いた。
彼女はこの空白期間中に、自分の部屋を片づけたり、1人でドライブをして買い物にでかけたりして気分転換をしたそうだ。
さらに、普段は出席しない、中京大学の講義にも出席をしていたそうだ。
母との思い出のリンクから一時的に離れることで、気持ちの整理をしていたのだろうか?
「最愛のなる家族との死別を乗り越えるには、深く長く悲しむしかありません。有名人の場合、家族の埋葬には大勢の方が訪れ対応に追われるため、遺族は悲しめる余裕もないのです。ですから家族葬という選択は浅田選手にとって良かったと思います。亡き人を思い出したときは、ひとりで落ち着ける時間を見つけることが大事です。浅田さんはドライブがその場所だったのかもしれませんね」(心理学者)
母が亡くなってから1年、折れない心を作ってきたそうです。
浅田真央が亡き母の自宅を相続
2013年12月、全日本フィギュア選手権2013では、まさかの3位という成績に終わってしまった浅田真央。2014年2月のソチ五輪で引退することを表明していましたが、技術を修正をする時間はあったのでしょうか。ソチ五輪には、女子シングルは鈴木明子選手、浅田真央選手、村上佳菜子選手が決まり、この選手達もライバルになりますが、一番のライバルはキム・ヨナではなかったでしょうか。
浅田真央は母が亡くなってから精神的な弱さを見せてきましたが、今では母の代わりに父がサポートをしてくれているそうです。
「真央ちゃんの実家は、彼女が生まれた翌年の1991年に名古屋の郊外に新しく建てられました。父と母、姉と真央ちゃんの4人家族での生活がスタートした場所です」
2011年に母・匡子さんは、亡くなった。
「この3階建ての自宅は真央ちゃんにとって、匡子さんとの思い出がたくさん詰まった大切な場所なんです。海外の遠征から帰ってきた時も、自宅に戻れば家族や愛犬が温かく出迎えてくれました。そんな自宅は安らぎの場所でした。真央ちゃんは大学の近くで一人暮らしを始めても、時間があると実家に顔を出していました」(浅田家の知人)
この思い出の自宅は父と母の共同名義。
実は匡子さんの死後、浅田は母が持っていた自宅の土地と建物の所有分を相続している。
「真央ちゃんはCM出演などもあるので、金銭面で困っていることはありません。わざわざ自宅を相続する必要はありません。通常だとお父さんが相続すると思いますが・・・。それでも母の遺産を受け継いだのは、匡子さんのたくさんの思い出がある自宅は、真央ちゃんに相続してほしいと強い思いがあったからでしょう。真央ちゃんは自宅の相続とソチ五輪での金メダルという母からの遺言書の内容を忠実に守ろうとしているのです」(別の浅田家の知人)
2014年1月からはソチ五輪に向けて、代表選手が集まる合宿が始まる。
「今回のソチには、これまでリンクに姿を見せなかった浅田選手の父親が観客席から声援を送る予定だそうです。海外の大会だけでなく、日本で行われる大会でも、これまで足を運ぶことがなかった父。しかし、浅田選手最後の競技大会となるソチでは、亡き匡子さんに代わり、娘の演技を見届けるようです」(スケート関係者)
浅田真央は、ソチ五輪で見事に金メダルを獲って母との約束を果たすことができるのか・・・
浅田真央がソチ五輪金メダルを獲ることを墓前で母に誓った
男子フィギュア・高橋大輔と同じくソチ五輪終了後に引退をすることを発表していた浅田真央。共に有終の美は、金メダルを獲ることを目標にしていました。
しかし、2013年12月に行われた第82回全日本フィギュアスケート選手権では、まさかの3位に終わってしまい、調整不足が心配されていました。ソチ五輪で金メダルを獲るには、ライバルであるキム・ヨナを倒さなければいけません。浅田真央は、ソチ五輪の本番前に母のお墓で対話をしていたという。一体、墓前で何を話していたのでしょうか。
「以前なら母のことになると表情が曇っていましたが、2013年12月初めに行われた三回忌法要では、もう悲しそうな顔はしていませんでしたよ」(浅田家の親族)
浅田真央の母・匡子さんが亡くなってからもう2年が経過。
浅田はソチ五輪で引退を表明していた。
浅田にとって最後の舞台であり、人生の集大成となる。
前回のバンクーバー五輪で銀メダルで、母に金メダルをかけてあげることができなかった。
そんな浅田はどうしてもソチ五輪で金メダルを獲らなければいけない理由があったという。
「なかでも、死を覚悟していた匡子さんが残した、ソチ五輪で金メダルを獲るまで泣いてはダメという最後の言葉を真央ちゃんはずっと胸に秘め続けています」(浅田家の知人)
そんな、母の遺言を守るために、これまで一生懸命励んできた。
そして、ここ数日、名古屋市にある霊園に浅田は何度もお参りしていたそうだ。
浅田家の知人が話す。
「ソチ五輪を直前に控えた真央ちゃんは、母の墓前で、金メダルを待っててねとでも話しかけているのでしょう」
母との約束を守るために、浅田はソチ五輪で金メダルを目指した。
2014年2月のソチ五輪本番。女子シングルSPで転倒し16位と出遅れた。翌日のフリーではトリプルアクセルを成功するなど、計8度の3回転ジャンプを着氷し142.71点と自己ベストを更新しフリーでは3位に。最終順位は6位入賞となりメダル獲得はならなかったが、フリーの演技を終えると感無量の表情で涙を浮かべ、大歓声に笑顔で答え感動を与えた。