羽生結弦は東日本大震災で覚醒!強さの秘密は家族との絆

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フィギュアスケートの羽生結弦(はにゅう ゆづる)は、2008年に初出場した全日本選手権で、出場選手中最年少ながら8位。2009年のジュニアGPファイナルを14歳の史上最年少で制覇。2010年には世界ジュニアも制した。2011年にシニアへ転向。2011年のロシア杯でGP初優勝。2014年のソチオリンピック男子シングル優勝。2014年の世界選手権優勝。2013年、2014年のグランプリファイナル二連覇。2012年~2014年の全日本選手権三連覇。

羽生結弦

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フィギュアスケート羽生結弦はどんな人?震災で覚醒した

これまで日本男子フィギュアスケートの顔といえば、2010年バンクーバーオリンピック銅メダリスト高橋大輔でした。そんな中で今、日本男子フィギュアスケートで一番注目されているのは羽生結弦。

2010年世界ジュニア選手権優勝し、2012年世界選手権銅メダルで、2013年から2014年にかけて出場した大会は1位か2位という好成績。そんな、羽生結弦選手はどんな環境で育ったのでしょうか?ここまで強くなれたのは、東日本大震災で覚醒をしたそうです。本人は、被災地である宮城県仙台市の出身です。

2013年-2014年シーズンの全日本選手権、GPファイナルで優勝した羽生結弦。
圧倒的な強さでソチ五輪代表に選ばれた。

羽生はどんな人物なのか調査をした。
羽生を知る関係者に話しを聞くと、共通する意見は、「礼儀正しい」ということだ。
「父は中学の教頭で、祖父も教師をやっていた。リンクでの練習の前と後で、必ずリンクに向かって一礼をする。年上を敬い、エレベーターなどでは先輩の後に一番最後に乗りますよ。厳格な父母に育てられたことがよくわかります」(フィギュア関係者)

そして、ファンに対しても礼儀正しいそうだ。
「ゆづはサインを求めると必ず応じてくれます。ファンの大半はゆづの息子を持つお母さんたちですね」(羽生結弦のファン)

そんな、羽生は1994年に宮城県仙台市で生まれ、4歳の頃からスケートを始める。「6年生の頃にはすでに3回転半を飛んでいましたよ。彼は体がすごく柔らかいので、男性では珍しいビールマンスピンを得意としています」(スケートの友人)

実は、幼い頃からスケートの実力はすごかった。
小学4年でノービス(ジュニアの下)大会初優勝。
中学1年でノービス選手にも拘わらず、日本男子史上初の全日本ジュニア選手権3位になった。
その後、2008年-2009年、2009-2010年シーズンと全日本ジュニア選手権を2連覇し、世界ジュニア選手権、ジュニアGPで優勝をしている。

中学時代の担任が羽生結弦について話す。
「すでにメダリストになっていましたが、普通の子と同じ。試合で学校を休んだら、その分を取り戻すために、ドリルを買って練習の合間に勉強をしていた。掃除は普段出れない分、来たときはちゃんとやりたいと取り組んでいました」

高校時代の担任もこう話す。
「自学自習ができる子でした。要領がよかったので勉強もできましたよ。人の話を聞き、しっかりと自分の意見を述べる子でした。スケートに集中するために携帯電話はもっていませんでした」

大学は早稲田の通信制を選んで、毎日7時間も勉強しているそうです。
(早稲田の通信制は入学は簡単だけど、卒業は大変のようです。芸能人でも中退した人が多いことでも有名ですね)

順風満帆なスケート人生だったのだが、2011年3月11日に東日本大震災が起きた。
羽生が練習していたリンク仙台を襲った。
幸い命は助かったものの、電気、水道、ガスなどすべてのライフラインが閉ざされ、家に戻れず、避難所での生活が続いた。
震災でリンクを失い、「こんな状況でスケートをやっていていいのか」と自問自答する日々を過ごした。

その後、小学生と中学生の時にスケートの指導を受けた恩師・都築氏のもとに身を寄せ、スケートの練習を再開させる。
「4月初めに仙台では練習ができないから、神奈川(こちら)で練習させてもらいたいという連絡がありました。精神的にダメージを受け、立ち直るのは大変でした。ご両親が彼を見守り、観察しながら再度フィギュアに立ち向かわせました」(都築氏)

イメージを大事にする羽生は、震災のことがフラッシュバックされ中々、練習に集中することができなかったそうだ。
自著では、震災の時のことを次のように話している。
「こんな地震がおきたんだし、僕はもうしょうがない。こんな苦しい思いをした上に、スケートで苦しい戦いなんて、もうしなくていいよ。普通の高校生に戻って、普通に生活がしたい」

しかし、震災の経験が羽生を大きくしたという。
「ホームリンクが無くなったことにより、チャリティーやエキシビジョンを回り、レベルの高い選手と一緒になり、自分の技量を磨けることができました。約60公演も回りました。その結果、2011年12月の全日本選手権、2012年3月の世界選手権で銅メダルを獲得することができました」(都築氏)

震災があったので、地元の仙台を出た結果、いろんな選手と交流ができ、いろいろ学べ、現在の強さができあがったそうです。
人は一度、辛い経験をし、這い上がってくると強くなるといわれていますが、まさにそのような強さを持った選手のようです。

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羽生の強さの秘密は家族との絆!家族全員で戦う

2014年ソチオリンピックで予想通り、羽生結弦がフィギュア日本男子で初の快挙、金メダルを獲得しました。5位に町田樹、6位に高橋大輔となりました。羽生はショートプログラムで101.45という高得点で圧倒的な強さでの優勝をしました。

羽生の強さの秘密を中学3年までスケートを教えていた指導者が話しをしています。そこには、家族一丸となって羽生を支える家族の絆があったという。

羽生結弦が日本フィギュア男子史上初の快挙を達成した。
表彰台では、誇らしげに花束を高々と掲げて微笑んでいた。
おなじころ、彼の故郷仙台市では、テレビに映る彼を見つめる4歳年上の姉Aさんがいた。
姉は羽生がスケートを始めるきっかけとなった女性だ。

小学校から中学3年まで羽生を指導した都築さんが話す。
「実は結弦くんは、最初はあまりスケートに興味がなく、どちらかといえば野球とかの方に興味があったみたいです。5分も滑ると飽きるような子でしたよ」
「でもお姉さんが一生懸命練習する姿を見て、段々と高まったみたいですよ。お姉ちゃんが跳べるなら自分も跳ぶ!お姉ちゃんができるなら自分もできる!と、お姉さんを目標にして頑張り始めましたよ」

そして、小学校4年に転機が訪れる。
羽生は、小学校4年生で全国大会優勝をしたのだ。
このことで、フィギュアを続けて行く決心をする。

だが、羽生の知人によれば、「そのころアイスリンクが経営難のため閉鎖されてしまったんです。それを機会に両親は結弦くんに、フィギュアをやめることを勧めたそうです。しかし彼は、もっとうまく滑りたいと思い始めた矢先のことでしたし、当時中学2年の姉が結弦やめるぐらいだったら、私がやめるとまで言い出して・・・。結局は結弦くんは続けることになりました」

その後、姉もフィギュアを高校生まで続けたが、自分が世界を目指す夢は捨てて、弟にアドバイスができるようにという気持ちになっていったという。
「お姉さんはいまは、結弦くんのホームリンクだったアイスリンク仙台の職員として働いています。トップアスリートへの道を早い時期に諦めましたが、その分、弟への思いも強いですね。そして、結弦くんもお姉さん思いのコなんです」(都築氏)

羽生の練習スタイルの特徴として、家族会議というものがある。
スケートのビデオを見ながら、自身のフォームを研究したり、ライバルのフォームを参考にしたりする戦略会議のことだという。
2012年にカナダのロンドンに拠点を移してからは、マンションで一緒に暮らす母が羽生のサポートをしているという。
「羽生家は、お母さんが健康管理など、生活面でサポートして、お父さんが見守る。そしてお姉さんが競技者の先輩として、結弦くんにスケートの技術などをサポートすることで成り立っていました」(都築氏)

ソチ五輪では、トロントに母と羽生が住み、日本(仙台)には、父と姉が暮らす生活スタイルを選択したそうだ。
「お姉さんは、大学に行きながらアルバイトをして、弟にお小遣いをあげていたそうです。この1年半ほど、お父さんとお姉さんの2人暮らしですが、カナダにいるお母さんの代わりに、お姉さんが主婦役を務めてきたのです」(実家のある県営団地に住む主婦)

自分の夢を捨てて、10年支えてきただけに、弟の快挙には感無量だったことだろう。
羽生の強さは、家族全員で団結をして、フィギュアスケートができるベストな環境で練習ができることにあるようです。

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