ラモス瑠偉は夫人をガンで亡くすもFC岐阜監督として奮闘中

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元サッカー選手のラモス瑠偉はブラジル・リオデジャネイロ州出身。1977年1月に来日。読売クラブ(現東京V)に入団し、V川崎、京都でプレー。1980年に初音夫人と出会い1984年に結婚。子供は息子のファビアノ、娘のファビアナがいる。1989年11月に日本国籍を取得し日本の10番としてドーハの悲劇を経験。1998年11月に現役引退。ビーチサッカー日本代表監督を経て2006年から東京V監督に就任し、2007年にJ1昇格を果たして退任。2014年1月からJ2・FC岐阜の監督に就任しています。

ラモス瑠偉

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ラモス瑠偉夫人が闘病生活わずか10日間!突然襲ったガンの転移

現在も死因原因の第一位は悪性新生物(ガン)です。近年、ガンになる人が激増しております。3人に2人がガンになり、3人に1人がガンで亡くなるようです。まさに現代病です。食品添加物が原因だとも言われています・・・。元日本代表の元サッカー選手・ラモス瑠偉の奥さんもガンが転移してから10日で亡くなったようです。

「1ヶ月前はあれだけ元気だったのに・・・。入院してから亡くなるまでわすが10日だったそうです。がんが全身に転移して、ものすごく苦しかったようで、最後の3日間はラモスさんもつきっきりで看病をしていました。どうか安らかに逝かせてあげて下さいと神様の家族3人でお祈りをしていたそうです」(友人)
2011年7月19日にラモス瑠偉の夫人の初音さんが亡くなった。
2011年7月上旬には、沖縄旅行を楽しむほど元気だった。 

1984年にふたりは結婚し、彼女は夫をそばで支え続けた。
「1981年にラモスがバイク事故を起こして選手生命の危機に陥った時も、彼女は必死に看病しました。その献身ぶりに感動したラモスが結婚を決意したんです」(サッカー関係者)
「彼女はいわゆる、肝っ玉母さん。人前では控えめにしていますが、家庭ではラモスさんをうまくコントロールしていました。彼に日本の常識や言葉も教えました。友人を連れてきた時には必ず手料理をふるまっていました」(友人) 

2011年、ビーチサッカー日本代表監督を務めていた。
妻の入院に急遽かけつけた、彼が妻に語ったのはこんな一言だった。
「退院したらイタリアにビーチサッカーをしにいこうね」
ラモスは2011年9月のイタリア開催のビーチサッカーW杯でベスト8を目標にしていた。
彼女が最後まで夢見ていたのは、夫がサッカー界で活躍する姿だった。
見届けることはできなくなってしまったけど、天国から見守っているに違いない。

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JリーグFC岐阜監督に就任!J3降格危機も

2013年12月経営危機にあったJ2・FC岐阜をラモスと親交のあったJトラスト社長の藤澤信義氏が支援。2014年1月にFC岐阜の監督にラモスが3年契約で就任。

磐田から元日本代表GK・川口能活(現在はSC相模原に移籍)、栃木から元日本代表DF・三都主アレサンドロ(現在はブラジルのクラブへ移籍)、横浜FCから難波宏明と高地系治などが加入し戦力強化。2014年は13勝10分け19敗で22クラブ中17位でシーズンを終えた。

2015年には息子であるラモス・ファビアノがFC岐阜のサテライトチームFC岐阜SECONDの監督に就任。

2015年のFC岐阜は12勝7分け23敗で22クラブ中20位と低迷。J3降格危機も辛うじてJ2残留を決めました。また、ラモス監督就任と同時に社長に就いた恩田聖敬氏が全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病「筋萎縮性側索硬化症 (ALS)」で2015年シーズンを最後に退任。

FC岐阜はスタジアムおよびトレーニング施設の改修によりJ1昇格基準を2015年に満たした。2016年は3年契約の最後のシーズン。ラモス監督の真価が問われます。

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